110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

ベンヤミン「複製時代の芸術作品」精読(多木浩二著)

 本書は岩波現代文庫版、2000年初版の書き下ろし。
 ベンヤミンがこの「複製時代の芸術作品」という小論を書いたのは1933年、フランス亡命時のこと。

 まず「複製技術」とは何かというと、「写真」のこと、そして、その技術的延長の「映画」を指している。これらの技術(印刷技術なども含む)で、同じ作品が、沢山作れるようになった。
 それは、それまでの芸術作品の、一品性(?造語かな)、独自性をうち壊す事になり。
 まるで、芸術作品に対する受け取りかたが変化することを指し示している。
 (怒られそうな断定だが)いわく、大衆化、娯楽化していく事を予想している。
 ちょうどこの時期は、どちらかというと、(新)技術への適応は、人間の阻害や機械化を押し進める事になるという論調の方が多い時期のような気がして、どちらかというと、技術の進歩には「否定的」な見解に向かいやすいのではないかと思ったが、ベンヤミンの論調は、そういう新技術に「適応」していくという姿勢が伺えて、新鮮な印象を受けた。
 しかし、その土台としては、芸術など文化の進化は、上位構造である、社会体制の進化と連携するという考えが根底にある、すなわち、当時の資本主義→ファシズム全体主義)の流れではなく、資本主義→共産主義へ発展展開することにより、この技術の進歩が生かされるという論調なのだ。
 が、残念ながら、その土台の方の論理は、(御存じのように)思ったようにはうまくいかなかったようだ。
 しかし、本論でのさまざまな芸術に対する考え方は、現在にも適用できる部分があるのでは無いかと思われる。
 自然科学は累積的に進歩すると思うので、当時存在しなかった技術に関しては、当然論じることができないのだが、概念的には共感できることがある。

 たとえば、
 数世紀にわたって文学においては、一方に少数の書き手がいて、他方にその数千倍の詠み手がいる、という状態が続いていたが、前世紀の終わり頃、その点に変化が生じた。新聞が急速に普及し、さまざまな政治的・宗教的・学問的・職業的・地域的組織をどんどん捲きこんでゆき、読者となじませるにつれて、しだいに多くの読者がー最初は散発的にー書き手に加わるようになった。同時にこのような読者のために、日刊紙は「投書欄」を設けはじめた。こうしていまでは、ヨーロッパのほとんどすべての労働者は、その労働の経験や、苦情や、ルポルタージュなどをどこかに公表するチャンスを、基本的にもてるようになっている。それゆえ、作家と公衆とのあいだの区別は、基本的な差異ではなくなりつつある。・・・

 上記引用は、本論文の本筋の部分ではないが、これは「ブログ」の目的と良く似ているように思ったので取り出してみた。
 目的を達成するための技術については、現在から見ると遠くおよばないだろう。
 しかし、その目的とするところ「何かを(ある程度)自由に表現したいということ」については、とても似ているように思うのだが?