110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

存亡の条件(山本七平著)

 本書は1975年ダイヤモンド社から刊行された。
 その後講談社学術文庫で読むことができる(古本で入手したので真偽は?)。

 こんなに付箋を貼った本は他になかった。
 私にとっては、宝物のような本になりそうだ。
 当然、山本氏の思想(「山本学」)について、反対意見などもあるだろうが、もとより、思想なるもの、言葉で表現されるものは、その読み手の理解力に左右されるのだから、それぞれの個人が、それぞれの力で読み解いていけば良いと思う。
 (ただし、他人に伝えたりするときには、別次元になる)
 
 ここのところ、清水幾太郎氏の「現代思想」で、戦後のある時期の事象について発生した「ある疑問」が、山本氏の「日本人とは何か。」で、どうも、江戸時代には問題にならなかった事だと気づいた、そして、それが、発生したのは、明治~昭和初期までの間では無いかと、こちらは、時代を特定できてきている。
 そして、新たに、朝河貫一氏の「日本の禍機」での、諌言があったのに、何故第二次世界大戦に突入したのか?という疑問は、本書で、かなり明確になった。
 すなわち、朝河氏の諌言は、ある意味、通っていたのだ、しかし、それが、結果として崩されて、戦争が発生したのだ。
 
 その原因は何かの一つの解釈が、本書の内容である。
 最近、話をしていて、妙に合理的に考えているなぁ・・・と思うことがある。
 そういう時に、その人が、本書にある「対立概念」で把握しているのかどうかは疑問だが、もしかすると、欧米化(?)した思考法がかなり浸透してきて、そのような人が増えたのかもしれない。
 対する「臨在感的把握」の旧日本人の私は「うーん」と悩むばかりではある。
 まぁ、思想・哲学が最近は低調なので、それは幻想なのかもしれない。

 ちなみに「臨在感的把握とは」
 一体われわれの対象把握の基本は何であろうか。対立概念による把握であろうか。もちろんそうではない。われわれは常に、対象が矛盾して見えることを嫌い、時には本能的に、時には故意に、矛盾する部分を捨象してしまうのである。その実例は、日本の近代史上限りなくある。かつての対米觀、一時期の対中国觀、ベトナム觀等々は、すべて、矛盾しそうな部分は捨象しこれを一方向から見る。
 私はこの見方を「臨在感的把握と呼ぶ。・・・

 それでは「対立概念」(的把握)とは
 ・・・たとえば国会である。「国会は国の最高機関であり唯一の立法機関」と定められているから、日本には国会は一つしかない。そしてこれを構成する議員は平等であり、各人の権利・義務一切に差別があってはならない。これは当然であろう。だが、この国会が、国会として実在し得るには、これが与野党という対立概念で把握できる状態であらねばならない。与野党とは、もちろん、その時々の状態で絶えず変わりうるのが原則だから、これは分立でもなければ、二つの国会が存在するわけでもない。国会はあくまで一つであり、その決議は国会の決議である。しかし、国会が一つだからといって、もしこれが、与野党という対立概念で把握できない状態になったとしたら、それは、ナチの国会と同様に、虚構の存在であって、実質的には存在しないものになってしまう。これはいいかえれば、与野党という対立概念で把握しうる限り国会は存在するが、もしこの対立概念で把握し得ない状態になったら、国会は実質的に存在していないことになる、ということである。
 なにやら、国会批判の方に目がいくが、本筋は、本来、絶対的なものや判断ができる事象は、非常に少ないのだから、いつでも見直しができるように、適度な対立が必要ということだと思う。本来、人間に、完全な善人も完全な悪人もないのだから、という趣旨の文も見受けられる。

 日本の歴史的な不思議さについて、表面上は「民主主義」であろうと「社会主義」であろうと、表面上のレッテルに関係なく、存在できる国民である事によるという、ある意味、2重構造のような社会構造がその原因だと示しているように思われる。(本音-建前社会かな?)
  ・・・このような転換をしながら、非常にすべてがうまく処理できたことには、それなりの伝統があった。・・・これが行えたことの基礎には、臨在感的把握の絶対化による、一方向的自己規制があったわけで、これがなければ不可能なわけだが、同時に、それによって前提さえ一応確定されれば、すぐその中で超人的な「術」が錬磨できるという伝統わわれわれはもっていた。
 これは一種の「鎖国の哲学」である。一見開国をしているように見えても、一方向に自己を規定してしまって他をみなければ、それは精神的鎖国といわなければならない。・・・
 うーん、そう言われると思い当たるふしが・・・?

 それでは「どうすればよいのだろうか」?
 ・・・明治以来の長い「前提を絶対化」する生き方は、いつしか「では、どうしろと言うのか」という質問が出ることを、だれも不思議に思わない奴隷の世界をつくってしまった。おそらくわれわれにとって現在必要なことの第一は「では、どうしろと言うのか」という世界から、まず脱却することである。そこにとどまっている限り、前述の思索も探索も一切ありえない。
 ナザレのイエスも、同じ質問を受けた。これに対する彼の返答は、一言でいえば、実に皮肉である。彼はその人にまず「お前が一人前の人間なら、自分のなすべきことぐらいは知っているであろう」という意味の事を言った。相手は、知っており、全部やっていると答えた。イエスはそれに対して「では、財産を全部捨てて貧しい人に施し、無一物になって、自分の意志を一切棄却して私について来るがよい」と言った。・・・
 どうすれば良いのかを自分で考えることが、ある意味、自由であることだと思うし、思索の本質であるように思う。
 逆に、安定を求めるのならば、その自由を放棄することもあり得るわけだ、それは、(他人の)思索の奴隷になるということだ。

 重ねて書くが、本書は1975年に刊行された、その時点で、山本氏は「状況が変わってきている」事を示唆している。それから、30年以上経過している、私自身の状況は、変わっていないと反省している。

 本書は自戒の書なのだ。

 碩学な諸氏は、すでに、このレベルは越えているのであろうと予想する。