生物から見た世界(ユクスキュル/クリサート著)
本書は、哲学などの思想について読まれる方なら、既に読まれたりしていることでしょう。
オリジナルは1934年に早すぎる登場(出版)をした。
岩波文庫版、2005年の新訳本を読んだ。
以下なにやら、難しいことも書いたが、読んでいて楽しい本である。
オリジナルは1934年に早すぎる登場(出版)をした。
岩波文庫版、2005年の新訳本を読んだ。
以下なにやら、難しいことも書いたが、読んでいて楽しい本である。
ユクスキュルの考えた「環世界」という考え方は「訳者あとがき」にこのように出ている。
客観的に記述されうる環境というものはあるかもしれないが、その中にいるそれぞれの主体にとってみれば、そこに「現実に」存在しているのは、その主体が主観的につくりあげた世界なのであり、客観的な「環境」ではないのである
本書では、例えば、ヒトとイヌとハエの「環世界」が、同じ(客観)空間にいても、それぞれ異なるものの把握の仕方をしている事がでてくる。 これは、どういうことかと言うと、ヒトという種類は、多分同じような「環世界」を見ていることだろう、「だろう」というのは、本当に「他人」が自分と同じものを(本当に)見ているかは判らないからだ。
幸いにして「言葉」というものを利用できる人間は、その差を、問い合わせることで、ある程度は埋めることができる(うそもあるだろうし、認識の間違いもあるだろうし・・・)。
しかし、それでも、それぞれの個体(主体)は、現在のところ「主観的」に存在しているしかない。
脳生理学の本など読んでいても、脳が考えているのか、それとも、身体という全体がひとつの脳なのか、未だわからないが、結論としては、どうも「主観」しかありえない。
その上で、世の中は「客観的に見えるような」事象にあふれている。
そこのところを、どう考えていくかが、ひとつの楽しみでもある。
幸いにして「言葉」というものを利用できる人間は、その差を、問い合わせることで、ある程度は埋めることができる(うそもあるだろうし、認識の間違いもあるだろうし・・・)。
しかし、それでも、それぞれの個体(主体)は、現在のところ「主観的」に存在しているしかない。
脳生理学の本など読んでいても、脳が考えているのか、それとも、身体という全体がひとつの脳なのか、未だわからないが、結論としては、どうも「主観」しかありえない。
その上で、世の中は「客観的に見えるような」事象にあふれている。
そこのところを、どう考えていくかが、ひとつの楽しみでもある。