110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

民間暦(宮本常一著)

 宮本常一氏の著作を読んだ方は多いことでしょう。
 私も少しずつ読んでいこうかと思います。
 さて、本書はいくつかの論文が集まったものだが、表題の「民間暦」は昭和17年となっている。

 民間暦は、その地方での農業や漁業などの、折々のタイミングを示すものであり、その地方毎の特徴のある暦になっている、そして、これは、自然との対峙ということが根底にある。 
 大雑把な把握だが、かつては自然と人間との対立というのは、現在から考える以上に深刻なものだったと考えられる、そのため、自然神に対して、人間は数々の祭祀を行い、その猛威を抑えるよう祈願した、そのために(自然)神への取組は真剣だったわけだ、しかし、その後、自然のコントロールが可能になるに従い、その集落の全ての人が祭(斎)主だったものが、代表者のみの専業化がおこなわれたり、大人が携わっていたものが子供にその役割を譲ったりしと、そのウェイトが低下していく。
 ある意味、象徴的な例は、節分の豆まきで、当初は、神だとされた、鬼を「鬼は外と」追い払うという価値の転換に見ることができると思う。
 まぁ、これは、文明の発展によるものである必然と考えることもできるでしょう。

 さて、これについて、宮本氏のこのような文章を見てみたい。
 「しかし都会の発達や新しい暦の流入、新しい文化は、こうした晴の日と平生の日の区別をしだいになくした。大都会の盛り場などはいつみても美しく、いつ行っても田舎の祭りよりは御馳走が食えるのである。かつては、また、田舎では買い物は市日ときまっていたのが、いつでも買えるようになった。戒しむべきは、のべつなきこの消費であって、村人が時折の晴の日に、ややはなやかに振る舞うそれではなかったはずだ。」
 昭和17年(1942)の指摘と言う風に考えると「どきっ」としました。

 また、最後のしめくくりは、
 「ただ過去の人々には今日のごとき衛生思想も経済理念もなかったかもしれない。そうしてその考え方も今日からみれば誤れるものが多かったであろうが、行事の一つ一つをみるとき、われわれの祖先も神の冥護を信じ、その指示に従って生活を懸命に打ちたてんと努力し、また、これを子孫に伝えて繁栄せしめんと祈ったものであることを感ずる。
 そしてわれわれは、その人たちの子孫なのである。」
 
 この様な見方が、意外な所につながったりすることがある。
 それは、別の機会にでも・・・