110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

不機嫌の時代(山崎正和著)

 本作は1976年に新潮社から刊行されたもの、私は、1986年に講談社学術文庫版になったものを読んだ。

 さて、本作は、明治40年ごろ、日露戦争終結後の、代表的な文学者(鴎外、漱石荷風、直哉)の作品の中に共通にあるとする「不機嫌」というものを描いていく文芸評論という位置付けになっている。
 文芸評論の方は、当方の出る幕も無いが、本書のもうひとつの側面である、これらの文学者が「不機嫌」を著した、その社会背景とはいったい何なのだろうか?という問題提起に、非常に興味を持った。

 「不機嫌」は、(実存哲学の)「実存の不安」と、似たような概念であるとして、キルケゴールハイデッガーという名前も本書には出てくる。
 そして、その不安の根底には、(以前の時代に比べ)明治時代に様変わりした「公私」の関係にあるのでは無いかという指摘が表れる。
 「公」秩序、「私」無秩序と少し短絡的にわけて考えて見て、それまで、先進諸国に追い付くというような「公」の目的が優勢であったものが、日露戦争を機に、その目的の達成による反動という「私」が台頭してくることにより、個人として、そして国民としての、精神的なバランスが崩れる(「私」の側面は無秩序であり、恣意的に規則を作らないと収まりがつかない、すなわち「私」の台頭は「無法状態」になる、しかし、規則というと、それは「公」ではないのか)、そこに、不機嫌という感情が出現する契機があるとする。

 この歴史の流れについて、漠然と思ったのが、第二時世界大戦後、復興という目的で、奇跡的に発展をとげた日本が、今度は経済的な勝利を手に入れたのは、1970年代、それとも1980年代であろうか?
 戦後の数十年間の復興期は「公」の時期、そして、経済的に成功を納めた時期以降が「私」の時期で、そこには再び「不機嫌」というものが、紛れ込んでいないだろうか、そして、今度は、思いきり「私」の方にバランスが傾いたのでは無いか・・・とそんなことを考えながら読んでいた。

 その解決法として「社交」というキーワードが出てくるのでないだろうか?と予測している。

 ちなみに、本書には、もうひとつの読み方があった、これは、あくまで私的なものだが、本書に引用される「不機嫌な人々」と、私の性格がにているのだ、自分の心が弱く、その弱さを補うために、傍観主義に陥る、また、いたって良い人のだという仮面を付けて、自分を偽る、そして、そこには、死ぬまで解決されない悩み(不機嫌)がある。
 そういう事を、そういう心理的な側面の解読について、噛みしめながら読んでいた(ちょっと大げさ)。

 以上の様に、本書は考えようによっては非常に多面的な本だと思う。