美の本体(岸田劉生著)
本書は昭和18年(1943)河出書房刊行「美乃本體」を、現代かな使いに直して講談社学術文庫から刊行されたものを読んだ。
岸田劉生という日本画家の美術論とはどういうものなのかというところが興味の焦点であった。
これは、あくまで私見だが、現在、いわゆる哲学・思想は、たとえば「イデア論」のような、絶対的な観点からの論議がほぼ否定されるか、疑問視されているように思う。
そう、ある意味「ニヒリズム」状況なのではないかと思っている。
しかし(優れた)芸術家はそのような状況下でも、何かを創造していかなければならない。
自分の力で、混沌(カオス)もしくは無限の中から、自分の「美」を掬い出すためには、無重力状態の中で、強制的に足場を作るような作業が必要になる。
その努力の片鱗が見てみたかったのだ。
そして、この芸術家の葛藤と対応するような言葉を、前に紹介したジラールの著作の中で引用された、ヘーゲルの言葉に見つけた、
「ミネルヴァのふくろう(=哲学)は、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」
本書でも扱われている、芸術家と批評家の関係のようにも思えてしまった。
岸田劉生という日本画家の美術論とはどういうものなのかというところが興味の焦点であった。
これは、あくまで私見だが、現在、いわゆる哲学・思想は、たとえば「イデア論」のような、絶対的な観点からの論議がほぼ否定されるか、疑問視されているように思う。
そう、ある意味「ニヒリズム」状況なのではないかと思っている。
しかし(優れた)芸術家はそのような状況下でも、何かを創造していかなければならない。
自分の力で、混沌(カオス)もしくは無限の中から、自分の「美」を掬い出すためには、無重力状態の中で、強制的に足場を作るような作業が必要になる。
その努力の片鱗が見てみたかったのだ。
そして、この芸術家の葛藤と対応するような言葉を、前に紹介したジラールの著作の中で引用された、ヘーゲルの言葉に見つけた、
「ミネルヴァのふくろう(=哲学)は、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」
本書でも扱われている、芸術家と批評家の関係のようにも思えてしまった。