110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

レトリック認識(佐藤信夫著)

 佐藤信夫氏の著作は私のお気に入りです。
 本書は1981年に講談社から刊行されたもの、現在は講談社学術文庫版で読むことができる。
 講談社学術文庫に含まれるだけの内容がありながら、さらりと読ませてくれる。
 佐藤氏の手腕には、浅学な私には丁度良いようです。

 氏は、一貫してレトリック(修辞法)を、主題にしながら、言葉の持つ不思議な性質を解き明かしていこうとします、それは視点は異なりますが、ソシュール言語学や、デリダなどの脱構築と何か通じるところがある様にも思います。
 レトリックが19世紀に衰退したことと、自然科学万能主義の時代、いわゆる近代化というのは何となく符合しているのですが、それが、脆くも崩れたことにより、更にレトリックな時代に突入してきたことも何か、面白い相関が」あるように思います。
 少し、拡大しすぎた解釈かもしれませんが、言語そのものが、多分にレトリックの要素を持っているようにも思います。
 今西仁司氏が解説したアルチュセールの本を読んでいた時だと思いますが、マルクスヘーゲルの影響を受けていることは事実だし、現にヘーゲルの使った術語(言葉)を利用している、しかし、それは、マルクスがその思想を語る時に、それにふさわしい言葉がなく、それに一番近い言葉を利用したからだという意味のことが書かれていたことを、思い出しました。
 すなわち、意味の上では(以前の思想と)断絶しているが、言葉としては、現行のものを利用しなければならない、その時、そこにレトリックの要素が紛れ込むのではないでしょうか?
 そして、それは、言葉が多義的であることが、紛れも無い事実である以上に、言葉の性質が両義的、すなわち、空は無でなく、全て(無限)であるというような(この例では、あくまで表面上は)矛盾を孕んだ意味を持ってしまうことがあるということが発生するわけです。
 そこには、意味の極点まで追求するような人々にとっては、脱構築の余地が十分残されてしまうことでしょう。

 佐藤氏の著作を読みながら、言葉の持つ力と脆さを感じた次第でした。