記号論の思想(宇波彰著)
本書は1983年青土社刊行「記号のエコロジー」という著作に、1990年代に著者が現わした論文がふかされたもの、講談社学術文庫1995年版を読む。
前半は、構造主義、ポスト構造主義と言った思想を記号論に絡めて評価している。
ここでの私見のキーワードはシュミラークルということで、確かに、指摘されてあるとおり、現在は、「その言葉」が指し示す「対象」というものが「無い(特定できない)」ものが増えているように思う。
稚拙な例だが「クルマ」は何か漠然とした意味しか持たず、自分の意識でその「クルマ」を捕らえるときには、すでに、トヨタの××のようなあるイメージと結びついている。
その場合の「クルマ」は何を示すのだろう?
そういえば、最近の食品偽造もそうだ、産地を織り込んだ商品名というイメージが、実態に先行してしまったということなのだろうか。
本書を読んでいると、人間中心主義はすでに終わり、その先の段階に至っているというような趣旨の記述があった、それは1980年代の論文だったが、確かにそうなのかもしれない。
最近、人間中心主義はいけないと、以前否定しながら(ハイデッガーの影響)、人間中心主義的なコメントをしている自分に気づいていた。
そして、その考えと周りの人の考え方と合わないと思っていた。
本書を読んで考えたのは、すでに、人間中心主義ではないのかもしれないということで、それは何なのだろうか?という疑問だ。
しかし、それならば、現在の社会(世界)をドライブしている要因は何なのだろうか、弁証法ではないが、人間が作り出したモノが人間をドライブしているのだろうか?
モノは必ずしも実体がるわけでは無く、その表面的な記号(イメージ)があるのだ。
確かに、そういう現象は起こりえるのだが・・・?
ちなみに、本書に収められていた「構造主義/ポスト構造主義」という論文は参考になった、でもまだ良く区別はできないのだが・・・
前半は、構造主義、ポスト構造主義と言った思想を記号論に絡めて評価している。
ここでの私見のキーワードはシュミラークルということで、確かに、指摘されてあるとおり、現在は、「その言葉」が指し示す「対象」というものが「無い(特定できない)」ものが増えているように思う。
稚拙な例だが「クルマ」は何か漠然とした意味しか持たず、自分の意識でその「クルマ」を捕らえるときには、すでに、トヨタの××のようなあるイメージと結びついている。
その場合の「クルマ」は何を示すのだろう?
そういえば、最近の食品偽造もそうだ、産地を織り込んだ商品名というイメージが、実態に先行してしまったということなのだろうか。
本書を読んでいると、人間中心主義はすでに終わり、その先の段階に至っているというような趣旨の記述があった、それは1980年代の論文だったが、確かにそうなのかもしれない。
最近、人間中心主義はいけないと、以前否定しながら(ハイデッガーの影響)、人間中心主義的なコメントをしている自分に気づいていた。
そして、その考えと周りの人の考え方と合わないと思っていた。
本書を読んで考えたのは、すでに、人間中心主義ではないのかもしれないということで、それは何なのだろうか?という疑問だ。
しかし、それならば、現在の社会(世界)をドライブしている要因は何なのだろうか、弁証法ではないが、人間が作り出したモノが人間をドライブしているのだろうか?
モノは必ずしも実体がるわけでは無く、その表面的な記号(イメージ)があるのだ。
確かに、そういう現象は起こりえるのだが・・・?
ちなみに、本書に収められていた「構造主義/ポスト構造主義」という論文は参考になった、でもまだ良く区別はできないのだが・・・