虐殺された鳩(アンリ・ラボリ著)
本書は1987年法政大学出版局刊行のもの。
なんとなく題名が気になって手に入れて読んだ本。
行動性生物学から敷衍して、政治における暴力を考察すると言うもの。
哲学・思想ではなく、自然科学(生物学)からの(社会)考察だが、奇しくも「身体論」につながる部分を発見して興味深く読むことになった。
身体論を考えるときに、意外にやっかいなのが、心身二元論としてとらえるのか、心身合一(一元)論ととらえるのか、という部分で、深く考えることの苦手な私は「直感で一元論」と雑な考え方をしている。
まぁ、それに付随して、唯物論とか観念論とかあるのだが、後者(観念論)を考えると、どうやったら、他者を把握できるのか(間主観性)という壁にぶち当たり、超越を考えてしまうことになったりする。
さて、本書の第一部では生物学的な説明が、著者のいままでの著作のおさらいとして書かれていて、そこで、人間の生物的な状況を簡単に知ることができる。
そこには、人間の身体が思った以上に周りの世界に開放されていて、その様々な影響(社会的な構造なども含めて)を受けている状況がうかがい知れる。
そして、潜在意識と呼ばれる、人間が意識せずに、身体の恒常性を保つために機能している様々な活動があることを知ることになる。
さて、動物については、様々なの実験から、その暴力性・攻撃性は、ある刺激によって発生することがわかる、しかし、人間にはそれ以外に、言葉によって、すなわち、理性によって、その攻撃性を助長したり抑制したりできるらしい(かならずしも抑制だけでないのが怖いところ)。
本書の第二部では、家族という最小単位から各種集団、国家というように、その規模を拡大しながら、暴力性について考察するが、例えば、家族内での暴力というものを取り上げるときに、その家族での犯罪のレベルまで拡大した暴力については法律で裁かれるにしろ、その原点がどこにあるのかを考察していない点について、問題提起をしている。
すなわち、家族内暴力というものの発生する背景には、その所属する、さらに大きな組織(社会)、そして階層(差別)に、その原因があるのではないかというのだ。
本書では「階級闘争」という言葉も現れているが、現代社会は、自由主義という名目のもとに、非常に細かい階層を作り出している、自身のいる、その階層について、それなりに満足できる状況(収入や社会的地位など)ならば良いが、そこに不満があった場合、そのストレスが、どこかに向かって発散される。
現代の社会は格差社会といわれ、そこには差別がある、その(ある意味見えない)差はストレスとなり、暴力につながる恐れがある。
しかし、逆説的に、現代は、この階層が細分化・多様化しているので、小規模なレベルでの暴力事件は減っていると著者は書いている。
逆に、警戒しなければならないのは、(この階層の一番頂上に位置する)国家レベルでの暴力、すなわち戦争であるとする。
そして、その戦争も、直接的な殺戮ではなく、経済的な戦争、経済的な殺戮というものがあるともほのめかしている。
厳しい論調だ、この観点を敷衍すると、議論が循環してしまうことは必死だ。
頭では理解できても、体がついていけない書であるのかもしれない・・・などと思った。
なんとなく題名が気になって手に入れて読んだ本。
行動性生物学から敷衍して、政治における暴力を考察すると言うもの。
哲学・思想ではなく、自然科学(生物学)からの(社会)考察だが、奇しくも「身体論」につながる部分を発見して興味深く読むことになった。
身体論を考えるときに、意外にやっかいなのが、心身二元論としてとらえるのか、心身合一(一元)論ととらえるのか、という部分で、深く考えることの苦手な私は「直感で一元論」と雑な考え方をしている。
まぁ、それに付随して、唯物論とか観念論とかあるのだが、後者(観念論)を考えると、どうやったら、他者を把握できるのか(間主観性)という壁にぶち当たり、超越を考えてしまうことになったりする。
さて、本書の第一部では生物学的な説明が、著者のいままでの著作のおさらいとして書かれていて、そこで、人間の生物的な状況を簡単に知ることができる。
そこには、人間の身体が思った以上に周りの世界に開放されていて、その様々な影響(社会的な構造なども含めて)を受けている状況がうかがい知れる。
そして、潜在意識と呼ばれる、人間が意識せずに、身体の恒常性を保つために機能している様々な活動があることを知ることになる。
さて、動物については、様々なの実験から、その暴力性・攻撃性は、ある刺激によって発生することがわかる、しかし、人間にはそれ以外に、言葉によって、すなわち、理性によって、その攻撃性を助長したり抑制したりできるらしい(かならずしも抑制だけでないのが怖いところ)。
本書の第二部では、家族という最小単位から各種集団、国家というように、その規模を拡大しながら、暴力性について考察するが、例えば、家族内での暴力というものを取り上げるときに、その家族での犯罪のレベルまで拡大した暴力については法律で裁かれるにしろ、その原点がどこにあるのかを考察していない点について、問題提起をしている。
すなわち、家族内暴力というものの発生する背景には、その所属する、さらに大きな組織(社会)、そして階層(差別)に、その原因があるのではないかというのだ。
本書では「階級闘争」という言葉も現れているが、現代社会は、自由主義という名目のもとに、非常に細かい階層を作り出している、自身のいる、その階層について、それなりに満足できる状況(収入や社会的地位など)ならば良いが、そこに不満があった場合、そのストレスが、どこかに向かって発散される。
現代の社会は格差社会といわれ、そこには差別がある、その(ある意味見えない)差はストレスとなり、暴力につながる恐れがある。
しかし、逆説的に、現代は、この階層が細分化・多様化しているので、小規模なレベルでの暴力事件は減っていると著者は書いている。
逆に、警戒しなければならないのは、(この階層の一番頂上に位置する)国家レベルでの暴力、すなわち戦争であるとする。
そして、その戦争も、直接的な殺戮ではなく、経済的な戦争、経済的な殺戮というものがあるともほのめかしている。
厳しい論調だ、この観点を敷衍すると、議論が循環してしまうことは必死だ。
頭では理解できても、体がついていけない書であるのかもしれない・・・などと思った。