身体・表現のはじまり(亀井秀雄著)
本書は、当初講談社から1974年に刊行されたもの、その後改訂されて、れんが書房新社から刊行された(1982年初版)。
内容は、身体論である。
本書には、メルロ=ポンティ、市川浩というような身体論の著者の名前も出てくる。
そして、それと対を成すように、意識を形成するもの、仲立ちするものとしての、言語というもののへの考察も出てくる、ここでは、例えば、ソシュールや時枝誠記等が表に出るのではなく、三浦つとむ、吉本隆明の考察に主眼が置かれていることに興味を持った。
そして、本書の話の骨格に『アヴァロンの野生児』ヴィクトールという青年の、その感覚・感性の発達の過程を下敷きにしているところに、興味を持った。
人間は、やはり周りの環境に従って、人間になるのだという事なのだろう。
それは、あたりまえなことと言われる方もいると思う。
そして、ある文明の発展衰退も、その作られた社会の(それ自体、再帰的な)相互作用によって、影響・変化を受けるものなのだろう。
それは、かのローマ帝国にしても逃れられないことだった。
身体論は、時流としては、既に昔のものかもしれないのだが、私にとっては今更興味があるのだ。
内容は、身体論である。
本書には、メルロ=ポンティ、市川浩というような身体論の著者の名前も出てくる。
そして、それと対を成すように、意識を形成するもの、仲立ちするものとしての、言語というもののへの考察も出てくる、ここでは、例えば、ソシュールや時枝誠記等が表に出るのではなく、三浦つとむ、吉本隆明の考察に主眼が置かれていることに興味を持った。
そして、本書の話の骨格に『アヴァロンの野生児』ヴィクトールという青年の、その感覚・感性の発達の過程を下敷きにしているところに、興味を持った。
人間は、やはり周りの環境に従って、人間になるのだという事なのだろう。
それは、あたりまえなことと言われる方もいると思う。
そして、ある文明の発展衰退も、その作られた社会の(それ自体、再帰的な)相互作用によって、影響・変化を受けるものなのだろう。
それは、かのローマ帝国にしても逃れられないことだった。
身体論は、時流としては、既に昔のものかもしれないのだが、私にとっては今更興味があるのだ。