110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

現象学の意味(フランシス・ジャンソン著)

 本書はせりか書房1967年刊行のもの。

 この著者はどこかで見た名前だと思ったが、「革命か反抗か(カミュサルトル論争)」の火付け役でこの2巨匠の間に埋もれたのだが、議論としては一番活発であった人だ。

 いまさら現象学というわけでもないと思うし、私が、きちんと現象学を理解していないので、ただ本書は、私的に面白く読んだということにしたい。
 ただ少し考えさせられるところを引用しよう・・・
 ・・・仮に私が自分のさまざまな行動の意味を、<無気力であり、周囲の事情の犠牲であることの選択>として取り上げなおしたとしてみよう。そうなれば、私は、自分をそんなふうにしているということで、自分自身を非難するであろうし、外的出来事への依存の態度、任務放棄の態度を自分のうちで告発することになろう。ところで、もしこの態度が本当にこれまで私のとってきた態度だとしても、その態度が具体化されうるためには、世界そのものの上に私の無力さを出現せしめていなければならぬ、つまり私の周りに麻痺した世界、はっきりと麻痺を意味している世界を構成しているのでなくてはならないわけである。それだけではない。もっと正確に言えば、漸次こうした意味を受胎した世界というのは、私のまわりにある世界ではなく、私のうちにある世界なのだ。雨が仕事のじゃまになったのも私のうちにおいてであるし、煙草がないためにものをじっと考えていられないというのも私のうちにおいてであり、この仕事が張り合いないのも、この未来が敵意に充ちているのも、このニュースが気を転倒させるのも、この沈黙が重苦しいのも、みな私のうちにおいてなのである。つまり、身体としての私、受肉した私のうちでのことなのであり、私が湿度に敏感になり、ニコチンに中毒し、傷つきやすくなり、神経質になり、興奮しやすくなっていることに即応するこの有機組織のなかでのことである。事実、私は自分で自分になす弁解を全部実際に生き、自分をその弁解にふさわしいものに「仕立て上げ」てきたのだし、その弁明をいわば「皮膚の内に」もっているのだ。
 問題のひとつは、自分の状況は、自分の意思(内にあるもの)の産物であるということ、そして、もう一つは、上記の命題を認識した上で、昨今それを、客観的な指標として、自分の外に出して評価するという傾向がないであろうかということ、または、外部の情報を正しいとして、むやみに認めていないかということ(・・・この考え方は、現象学の後に、構造主義が来たことで、安易に片付けても良いのかもしれないのだが)、端的に言えば、人間は何を持って自立すればよいのか「主観(体)」なのか「客観」なのかという、言い尽くされた「問いかけ」なのだ。