110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

シャドウ・ワーク(I.イリイチ著)

 本書は岩波現代選書版で読む。

 本著者、本書名ともに良く引用されたもので以前より知っていた、今回はよい機会にめぐり合えたので読んでみた。

 「シャドウ・ワーク」とはということは今更ながらの愚問ですでにご存知の方も多いことだろう。
 私も、本書ほど系統だっていないがその部分については考えたことがある。

 今までは隠れていたそういう仕事が、経済性の下に表面化してくる、それには貨幣価値が付与されているが、そうすることで、今まで隠れていた仕事は表面化し管理下におかれてしまう、それはそのうち、対価を支払わなければいけないもの(仮想だろうが)と思わされてしまう。
 
 本書で端的に表されたのは「家事」であったが、現在は女性も賃労働をするケースが増えたことから、「家事」も相対的に表面化され、ビジネス化されてきている、例えば、食事を作る時間などの短縮に現れる、また「介護」も今まで家族が対応してきた部分をビジネスとして表面化・経済化することを目的とする。
 それは、一面、経済価値として計上されなかったものを、経済価値として計上することであり、今までは、そういう経済性の下に管理されなかったものを、管理下に置くということでもあるのだろう。
 
 それは、よい事ではないか、当たり前ではないかと思われる方もいるかもしれない。
 しかしながら、このように経済の下に社会が運営されている状況が、本当に正しいものなのかをよく考えねばならないのではないかと思うのだ。
 例えば、幼児、子供の時代、そして、これから来る老人の時代、確かに社会の要請としては、貨幣=経済の体系に組み込まれざるを得ないが、それらは本質的に経済的なものであろうか?
 この経済システムは、限りなく増大する欲望のシステムであるならば、上記の時代は、生産性が低いかもしくは蓄えを吐き出すだけの時代になるはずであり、忌避されるものとなるはずだ。
 しかし、この論理は何かおかしいような気がする、人間が生存することと、経済システムのどちらが主体なのだろうか?
 
 などということを考えるのだが、日本は将来にわたっての負債を背負っているかぎりは、この経済システムに見事に取り込まれているので、その上でどうしようか考えることになろう。