シンボル形式の哲学(カッシーラー著)
本書は岩波文庫版で読む。
読むといってもずいぶんと時間が掛かった。
大著なのだ、しかし、それ相応のものであることは間違いない。
著者は、シンボル形式という発想で、自然科学、数学や物理学と哲学の(再度の)橋渡し(昔は、哲学も自然科学も哲学として統一されていましたが)を目論んだように思う。
それは、抽象化の極である数学を中心に、個別的な・具象的な物理学を統合するというものであり、その時の「接着剤」としてシンボルがあるというものなのだろう。
確かに、人間の認識としては、個別な事象をとらえることは難しい、そこで、抽象化して認識することになる、例えば、あなたの持つ「プリウス(車)」と私の持つ「プリウス」は、とても似ているが、厳密に言えば全然別物だ、しかし、普段の会話では「プリウス」で、まず間違いなく済んでしまうだろう・・・そういうマジックを「言葉」すなわちシンボル化によって行っているということなのだろう。
そして、その言葉の抽象化を限界まで推し進めると、逆に、目の前にある「プリウス」という実体を無理やり抽象的なものに昇華していくと・・・あら不思議、世の中はシンボルの世界一式になるということのようだ。
それは、著者が新カント派と呼ばれた時期があることから、観念論の立場を推し進めた結果なのだろうかと思う。
しかし、そう思いながら読むと、本書の目的が、数学や物理学の概念を推し進めることでこの世界を把握するということならば、同時期に提唱された、数学では「不完全性定理」、量子力学では「不確定性理論原理」などが、その理想が達成できないことを示してしまった様に思うのだ。
それでは、本書は終わった本なのかというと、そうでもなさそうだ、本書は、デカルト、ライプニッツ、カントなどが目指してきた、自然科学と哲学の邂逅の書だと思うのだ、同時期のハイデッガーとは、対立する立場になるのだろうが、カッシーラーの方が明らかに現代的に通じる感じがするのだ。
だから、彼の後継者であるメルロ=ポンティなどを読んだりする人も、機会があれば読んで欲しいなと思うのだ。
ただし、読むのは大変。
読むといってもずいぶんと時間が掛かった。
大著なのだ、しかし、それ相応のものであることは間違いない。
著者は、シンボル形式という発想で、自然科学、数学や物理学と哲学の(再度の)橋渡し(昔は、哲学も自然科学も哲学として統一されていましたが)を目論んだように思う。
それは、抽象化の極である数学を中心に、個別的な・具象的な物理学を統合するというものであり、その時の「接着剤」としてシンボルがあるというものなのだろう。
確かに、人間の認識としては、個別な事象をとらえることは難しい、そこで、抽象化して認識することになる、例えば、あなたの持つ「プリウス(車)」と私の持つ「プリウス」は、とても似ているが、厳密に言えば全然別物だ、しかし、普段の会話では「プリウス」で、まず間違いなく済んでしまうだろう・・・そういうマジックを「言葉」すなわちシンボル化によって行っているということなのだろう。
そして、その言葉の抽象化を限界まで推し進めると、逆に、目の前にある「プリウス」という実体を無理やり抽象的なものに昇華していくと・・・あら不思議、世の中はシンボルの世界一式になるということのようだ。
それは、著者が新カント派と呼ばれた時期があることから、観念論の立場を推し進めた結果なのだろうかと思う。
しかし、そう思いながら読むと、本書の目的が、数学や物理学の概念を推し進めることでこの世界を把握するということならば、同時期に提唱された、数学では「不完全性定理」、量子力学では「不確定性理論原理」などが、その理想が達成できないことを示してしまった様に思うのだ。
それでは、本書は終わった本なのかというと、そうでもなさそうだ、本書は、デカルト、ライプニッツ、カントなどが目指してきた、自然科学と哲学の邂逅の書だと思うのだ、同時期のハイデッガーとは、対立する立場になるのだろうが、カッシーラーの方が明らかに現代的に通じる感じがするのだ。
だから、彼の後継者であるメルロ=ポンティなどを読んだりする人も、機会があれば読んで欲しいなと思うのだ。
ただし、読むのは大変。