110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

詩人 与謝蕪村の世界(森本哲郎著)

 本書は昭和44年至文堂刊行のもの、私は講談社学術文庫版で読む。

 本書は、途中まで読んでは中断し、随分長い時間を掛けて読了した、文章が読みにくいという感じではないのだが何故だろうか?

 そして、最後に気づいたのは、本書の題名であり、何故「詩人 与謝蕪村」なのかという謎解きだったのだ。
 それほど、俳句や絵画に詳しくなくとも、与謝蕪村俳人、画家というイメージは浮かんでくる、しかし、詩人というイメージは難しい。
 本書では、その「詩人」である蕪村を様々な人物と対照させながら、著者の志向性を論述していくのだ。
 そして、私が「なるほど」と思ったのは、芭蕉との比較であり、芭蕉俳人として生きた、それは有る意味「俳人というイデア」すなわち、非現実としてのヒーロー「芭蕉」を生きたとし、それに対して、蕪村は、自分や娘の生活のために絵を売り、その現実的な生活の中で俳句をものにするという、実存し、生身の、えげつない、生活臭のする芸術家であったとするのだ。
 それは、芭蕉と蕪村の生まれ(武士階級と農民階級)や、時代性(蕪村の時代は商品経済が発達し、必然的に金を稼がなければならない)に影響され、芭蕉にはできたことが蕪村には実現できなかったということらしいのだ。

 本書を読むと、はっきりとそれを跡付ける資料は無いのだが、蕪村は大変な勉強家、努力家であることが窺える、しかも、俳句だけではなく、画家でもあり、双方において名人となっていることからすると、その努力家・秀才としての素性もあるが、もしかすると、芭蕉よりも才能、能力はあったのかもしれないなどと勘ぐってしまう。
 しかしながら、蕪村は、芭蕉の後を追いつつも、芭蕉のようにはなれなかったわけだ。
 それは、単に時代性と言って片付けるほど易しい問題ではなさそうだ。
 だから、著者は、蕪村を俳人ではなく詩人と位置づけたのだろう。
 それは、現実にどっぷりとつかりながらも、その現実を超え出る、そこが詩人の感性なのだということを言いたいのではないかと思うのだ。

 本書を読んでいて、まったく性格が違うし、蕪村と並べると怒られそうだが、有り余る才能を生かせなかいで一生を終えた「竹林無想庵」という名前を思い浮かべたのだ。

 これも人生ということなのだろう。