同性愛と生存の美学(ミシェル・フーコー著)
本書は哲学書房1987年刊行のもの。
本書は、「性の歴史」という著作刊行後のインタビューと、比較的初期のインタビュー1編と、短編を1編をまとめたもの。
肝心の「性の歴史」も読まずに、この手の本を読むのは、少し、調子のいい読書なのだが、それでも、表題にある「同性愛」ということについて考えることは多々ある。
そもそも、同性愛とは、善なのか悪なのか、また、倫理的・道徳的に、是なのか非なのかという面で考えると、本書を読まずして、直感で答えると、悪いもの(こと)というイメージを持っていた。
また、そういう人と直面すると、何か悪い人(少なくとも異質の人)というイメージを持つだろうと思う。
しかし、良く考えなくても、普通(ノーマル)な性だという人でも、悪もあれば、非倫理もあり、そういう面で何が問題なのかは簡単には導き出せない。
例えば、人口を増やす目的が明確に有るという国(社会、共同体・・・とか)ならば、それは問題になるだろう。
(その場合、同性愛者だけでなく聖職者も問題になりそうだが・・・?)
そして、愛するのは、自己であったり、他人であったりするが、異性である必要はあるのか、そんなことを考えると、哲学上の問題の、心身二元論が思い浮かんだ。
いわく、身体が求めているものと、精神が求めているものが、必ずしも同一であるといえるだろうか?
(おいおい、身体がそもそも求めるのかい・・・それは本能ってやつかね)
まぁまぁ、だから結論ていうのはさ、
「なんて、人間ってやつはいい加減なんだ(私もね)」
(それ、当たり前やんか・・・・)
著者はそういう良く考えると何かが違うのだが、なんとなく世間が裁断を下してしまっていること(風潮)に警告を鳴らしたのだと思う。
それは、「装置・性章現象・無意識」という章で、インタビュアーに押し切られてしまい、「公私の役職を辞任します!なんと恥ずかしいことだ!、悔悟の灰を頭からかぶりたい!」・・・・「哺乳瓶の誕生を知らなかったなんて!」というオチをつけてくれるところに、著者の機智を感じてしまうのだ。
理屈では押し切られたが、その姿勢は保持したと思うのだ。
そういう、怪しさも含めて、今回は、小編でもあったので、自分なりに読ませてもらった。
本書は、「性の歴史」という著作刊行後のインタビューと、比較的初期のインタビュー1編と、短編を1編をまとめたもの。
肝心の「性の歴史」も読まずに、この手の本を読むのは、少し、調子のいい読書なのだが、それでも、表題にある「同性愛」ということについて考えることは多々ある。
そもそも、同性愛とは、善なのか悪なのか、また、倫理的・道徳的に、是なのか非なのかという面で考えると、本書を読まずして、直感で答えると、悪いもの(こと)というイメージを持っていた。
また、そういう人と直面すると、何か悪い人(少なくとも異質の人)というイメージを持つだろうと思う。
しかし、良く考えなくても、普通(ノーマル)な性だという人でも、悪もあれば、非倫理もあり、そういう面で何が問題なのかは簡単には導き出せない。
例えば、人口を増やす目的が明確に有るという国(社会、共同体・・・とか)ならば、それは問題になるだろう。
(その場合、同性愛者だけでなく聖職者も問題になりそうだが・・・?)
そして、愛するのは、自己であったり、他人であったりするが、異性である必要はあるのか、そんなことを考えると、哲学上の問題の、心身二元論が思い浮かんだ。
いわく、身体が求めているものと、精神が求めているものが、必ずしも同一であるといえるだろうか?
(おいおい、身体がそもそも求めるのかい・・・それは本能ってやつかね)
まぁまぁ、だから結論ていうのはさ、
「なんて、人間ってやつはいい加減なんだ(私もね)」
(それ、当たり前やんか・・・・)
著者はそういう良く考えると何かが違うのだが、なんとなく世間が裁断を下してしまっていること(風潮)に警告を鳴らしたのだと思う。
それは、「装置・性章現象・無意識」という章で、インタビュアーに押し切られてしまい、「公私の役職を辞任します!なんと恥ずかしいことだ!、悔悟の灰を頭からかぶりたい!」・・・・「哺乳瓶の誕生を知らなかったなんて!」というオチをつけてくれるところに、著者の機智を感じてしまうのだ。
理屈では押し切られたが、その姿勢は保持したと思うのだ。
そういう、怪しさも含めて、今回は、小編でもあったので、自分なりに読ませてもらった。