110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

断章31~33

 断章31は「われわれがキケロのなかで非難するあらゆるいつわりの美には、それに感心する人があり、しかも多数ある」とある。
 様々に解釈できよう「蓼食う虫も好き好き」でもありえるし、流行作家は必ずしも良質な作品であるかどうかは疑わしいでも良いように思う。
 キケロに関して皮肉めかしたことを言えば、権威者の高尚な洞察は、一般大衆の発想とは違う、しかもたまには、随分違う。

 断章32は、「弱いにせよ強いにせよ」、「われわれのあるがままの性質」と「われわれの気に入ることと」との間には「ある種の関係から成り立っている」、だから「快さと美しさとのある種の典型が存在する」とある。
 われわれの「あるがままの性質(自然か?)」が「気に入ること」と関係が有る、だからここから典型的な「快さ」や典型的な「美」があるとする。

 だから、この典型にのっとっていないものは、「よい趣味を持っている人々の気に入らない」。
 とすれば、良い趣味をもつ人々」はこの典型を認識している人であろう。

 そして「この唯一の典型に似ているという理由から」とある、当然「典型」とは上記の快さや美についての「典型」であり、「このよい典型にのっとって作られた歌と家のあいだには、完全な対応関係が存在するのである」が「悪い典型にのっとって作られたもののあいだにも完全な対応関係が存在する」という。
 しかも、悪い典型は「無数にある」という。
 また、「偽の典型」という言葉も出てくるので、解釈が混乱する。

 ここでは、どちらも冒頭の「典型」であらざるもの「非典型」という解釈をしてみたい。

 だから、あるものの良い悪いを判断するには、「その本性と典型を考え」それから「その原型にのっとっている」ものを「想像してみるにこしたことはない」と言う。
 うーん、少し厳しいか!

 断章33は、「詩的な美」という書き出しからはじまるが、断章32と関係が有る内容だと思う。
 「詩的な美」はあるが「幾何学的な美」や「薬学的な美」とは言わない、それは、その目的にあるという、幾何学は「証明」、薬学は「なおる(治癒)」であるのだが、詩の目的である「快さ」ということが「何から成り立っているかは、知らないのである」とする。
 それは、「模倣すべき自然の典型とは何であるかを、人は知らない」と言いなおされている。
 「典型」とは、自然の典型である(そうすると「自然」についてもどこかの断章から観念を拾わねばならない)。
 そこで「それを知らないために、ある種の奇妙な用語を発明した」それは「黄金の世紀」「現代の驚異」「宿命的な」等々だとして、「この種の隠語を、人は詩的な美と呼んでいるのである」
 
 この「詩的な美」が、誇張された表現をとるために、その意味を深く考えずに影響を受けると「鏡や鎖で満艦飾のきれいなお嬢さん」という状況になり「ふきだす」ことになるだろう。
 外見ではなく、本性をみること、いや、本性(ここでは、自然の典型)は知る事ができないのか?
 
 うーん、ここでは、ちょっと「形而上学」という言葉を保留して進んでみよう(ささやかな抵抗だが)。