断章62、63
断章62は「第一部の序言」とはじまる、第一部とは何か?と疑問が起るが、この断章だけでは判断できない。
ただし、ここでは「自己認識の問題を論じた人たちについて話すこと」と、主題を明確にしている。
そして、シャロンとモンテーニュの2名を取り上げ、モンテーニュについての批判に大分を裂いている。
すなわち、「自己認識の問題」を「直線的方法」で論じることの「欠陥をよくわきまえていたので」、確信的にその欠陥を避けていたとする。
それはこういう言葉に集約されるのだろうか・・・「自己を描こうとした愚かな企て」。
思うに、神を抱けば、それは、自己とは神の中に見出すということになるのではないか、それを、人間自体が、自己認識できるというのは・・・・!!
ということかしらね?
断章63は、「モンテーニュ」と始まる、ご存知の通り、パスカルはモンテーニュを毛嫌いしている。
本断章の中核は「彼の著書は人を敬虔にさせるために書かれたものではないから、この義務はなかった。しかし、人をそれからそらさないという義務は、どんな場合にもあるのである。」というところ、更に言えば「敬虔」という言葉が示すところであろう。
それは「なぜなら、すくなくとも死ぬことだけはキリスト教的にしようと願わないのだったら、敬虔の心をすっかり断念しなければならないからである。」のところだろう。
キリスト教を信仰しない人々は、どちらかというとモンテーニュの考え方に共感を持ってしまうのではないか・・・と、予想してしまうのだが、しかし、モンテーニュも知らんという人も結構居るかもしれん。
ただし、ここでは「自己認識の問題を論じた人たちについて話すこと」と、主題を明確にしている。
そして、シャロンとモンテーニュの2名を取り上げ、モンテーニュについての批判に大分を裂いている。
すなわち、「自己認識の問題」を「直線的方法」で論じることの「欠陥をよくわきまえていたので」、確信的にその欠陥を避けていたとする。
それはこういう言葉に集約されるのだろうか・・・「自己を描こうとした愚かな企て」。
思うに、神を抱けば、それは、自己とは神の中に見出すということになるのではないか、それを、人間自体が、自己認識できるというのは・・・・!!
ということかしらね?
断章63は、「モンテーニュ」と始まる、ご存知の通り、パスカルはモンテーニュを毛嫌いしている。
本断章の中核は「彼の著書は人を敬虔にさせるために書かれたものではないから、この義務はなかった。しかし、人をそれからそらさないという義務は、どんな場合にもあるのである。」というところ、更に言えば「敬虔」という言葉が示すところであろう。
それは「なぜなら、すくなくとも死ぬことだけはキリスト教的にしようと願わないのだったら、敬虔の心をすっかり断念しなければならないからである。」のところだろう。
キリスト教を信仰しない人々は、どちらかというとモンテーニュの考え方に共感を持ってしまうのではないか・・・と、予想してしまうのだが、しかし、モンテーニュも知らんという人も結構居るかもしれん。