断章64~67
断章64は、燻し銀のような言葉。
「モンテーニュのなかで私が読みとるすべてのものは、彼のなかではなく、私自身のなかで見いだしているのである。」(全文)
断章65は、再びモンテーニュについて、パスカルの立場を考えると次の言葉が効いてくる。
「彼のにある悪いもの、・・・・自分のことを話しすぎるということを彼に注意してやりさえすれば、すぐにでも改められたことだろう。」
断章66は、良いが余り引用されないようだ。
「人は自分自身を知らなければならない。それがたとえ真理を見いだすのに役立たないとしても、すくなくとも自分の生活を律するには役立つ。そして、これ以上に正当なことはない。」(全文)
断章67は「学問のむなしさ」について、それは「外的な事物についての学問は、苦しいときに、道徳についての私の無知を慰めてはくれないだろう」、しかし「徳性についての学問は、外的な学問についての私の無知をいつも慰めてくれるだろう」。
だから、この断章の第一行目は「外的な事物についての学問のむなしさ」であり、「外的な事物についての学問」とは、多分、主観-客観の対応の如く、客観的な学問であろうか?いや、やはり人間の内外という方がなんとなくおさまりが良さそうだ。
「外的な学問」に対する「内的な学問」、それは断じて心理学ではない(はずだ)。
「モンテーニュのなかで私が読みとるすべてのものは、彼のなかではなく、私自身のなかで見いだしているのである。」(全文)
断章65は、再びモンテーニュについて、パスカルの立場を考えると次の言葉が効いてくる。
「彼のにある悪いもの、・・・・自分のことを話しすぎるということを彼に注意してやりさえすれば、すぐにでも改められたことだろう。」
断章66は、良いが余り引用されないようだ。
「人は自分自身を知らなければならない。それがたとえ真理を見いだすのに役立たないとしても、すくなくとも自分の生活を律するには役立つ。そして、これ以上に正当なことはない。」(全文)
断章67は「学問のむなしさ」について、それは「外的な事物についての学問は、苦しいときに、道徳についての私の無知を慰めてはくれないだろう」、しかし「徳性についての学問は、外的な学問についての私の無知をいつも慰めてくれるだろう」。
だから、この断章の第一行目は「外的な事物についての学問のむなしさ」であり、「外的な事物についての学問」とは、多分、主観-客観の対応の如く、客観的な学問であろうか?いや、やはり人間の内外という方がなんとなくおさまりが良さそうだ。
「外的な学問」に対する「内的な学問」、それは断じて心理学ではない(はずだ)。