名人(川端康成著)
本書は新潮文庫版で読む。
前回、ライトノベルにも見るべき作品があると書いた手前非常に恥ずかしいのだが、本作を読むとそれを撤回しなければならないようだ。
この短編を読むと、その文章というものの力を思い知った気がする。
川端氏と(前回で紹介した)大泉氏は、それぞれ求めている方向やそもそも小説という範疇での立ち位置が違うと言えばそれまでだが、そこにある言葉、そして、その連なりである文章を読むとその差は歴然であることに気づいた。
川端氏の文章は、細かく分析すれば様々な不整合が見つかるのでは無いかと思う、話の流れを整然と書き記すことでは大泉氏にも分がある様に思う。
しかし、そのそれぞれの言葉の断片が組合わさった時に現れる(小説の)世界観というものが、この両者では異なる。
何故だろうか、川端氏の文章は目の前に浮かび上がってくるのだ。
本作は、囲碁の名人の最後の対戦を(実際に)観戦した著者が、その事柄を小説として書き記したものだが、ここで作者はそれをノンフィクション(観戦記)ではなくフィクションとして描き、そして、そのフィクションを読む、私たちにより現実的な世界を見ているような錯覚を覚えさせるのだ。
魔術だと思った。
新しい作品にもそうだが、古典にも十分な力がある、それを発見するかどうかは、やはり自分の認識力だなと思う。
前回、ライトノベルにも見るべき作品があると書いた手前非常に恥ずかしいのだが、本作を読むとそれを撤回しなければならないようだ。
この短編を読むと、その文章というものの力を思い知った気がする。
川端氏と(前回で紹介した)大泉氏は、それぞれ求めている方向やそもそも小説という範疇での立ち位置が違うと言えばそれまでだが、そこにある言葉、そして、その連なりである文章を読むとその差は歴然であることに気づいた。
川端氏の文章は、細かく分析すれば様々な不整合が見つかるのでは無いかと思う、話の流れを整然と書き記すことでは大泉氏にも分がある様に思う。
しかし、そのそれぞれの言葉の断片が組合わさった時に現れる(小説の)世界観というものが、この両者では異なる。
何故だろうか、川端氏の文章は目の前に浮かび上がってくるのだ。
本作は、囲碁の名人の最後の対戦を(実際に)観戦した著者が、その事柄を小説として書き記したものだが、ここで作者はそれをノンフィクション(観戦記)ではなくフィクションとして描き、そして、そのフィクションを読む、私たちにより現実的な世界を見ているような錯覚を覚えさせるのだ。
魔術だと思った。
新しい作品にもそうだが、古典にも十分な力がある、それを発見するかどうかは、やはり自分の認識力だなと思う。