将来の哲学の根本命題 他二篇(フォイエルバッハ著)
本書は岩波文庫版で読む。
ちょっと読んで放っておいた本、昨日、本書と目が合ってしまいあくせくと読んだ次第。
解説を読むと著者の批判には問題点があるとするも、第1刷として刊行された1967年の視点で読むよりも、今読んだ方がわかりやすいのではないかと思う。
存在(ある)の反対は非存在(ない)ではなく、個物であるとする論調は・・・良いなぁ。
すなわち、存在という抽象観念に対応するのは、個物という具体的な事象であるという対比であり、言葉をかえると、普遍と個物という対比にしないと、知らないうちに、有ー無という対応、すなわち抽象的な言葉の世界へ足を踏み込んだまま、現実的な世界に戻ってこれなくなるぞってことだと、勝手に解釈してしまった。
私的には、仏教的な無や空の思想の影響があるので、本書を読んだあと、こんなことを考えた。
たとえば、「無を思ってください」と言われて、「無」がわかる人は、「無」という概念(言葉か)を(自分の認識する位置を)内からではなく、外から見ていることに気づくのだ。
だって、私自体が「無」になったら、わからないじゃない、様々な器官や機能が「無」ですよ。
だから「存在」に対する「存在論」の位置から見ていると思うのですよね、それは、本当は現世にいるのに、形而上とか彼岸とかいうところに自分が居るつもりになって、(無を)議論しているということ、夢物語の世界の話を、あたかも現実の様にしているという(魔術的な)ことなのだわ、ということなんですよね。
そういう点から考えると、最近の哲学の本なんか(いや哲学に限らず本一般も)読まないという方ほど、本書の論点がつかみやすいのではないかと思うのですよね。
でも、もしかすると、フォイエルバッハよりもゲーデルの方が、本書の論点を説明するには適しているかもしれません。
ちょっと読んで放っておいた本、昨日、本書と目が合ってしまいあくせくと読んだ次第。
解説を読むと著者の批判には問題点があるとするも、第1刷として刊行された1967年の視点で読むよりも、今読んだ方がわかりやすいのではないかと思う。
存在(ある)の反対は非存在(ない)ではなく、個物であるとする論調は・・・良いなぁ。
すなわち、存在という抽象観念に対応するのは、個物という具体的な事象であるという対比であり、言葉をかえると、普遍と個物という対比にしないと、知らないうちに、有ー無という対応、すなわち抽象的な言葉の世界へ足を踏み込んだまま、現実的な世界に戻ってこれなくなるぞってことだと、勝手に解釈してしまった。
私的には、仏教的な無や空の思想の影響があるので、本書を読んだあと、こんなことを考えた。
たとえば、「無を思ってください」と言われて、「無」がわかる人は、「無」という概念(言葉か)を(自分の認識する位置を)内からではなく、外から見ていることに気づくのだ。
だって、私自体が「無」になったら、わからないじゃない、様々な器官や機能が「無」ですよ。
だから「存在」に対する「存在論」の位置から見ていると思うのですよね、それは、本当は現世にいるのに、形而上とか彼岸とかいうところに自分が居るつもりになって、(無を)議論しているということ、夢物語の世界の話を、あたかも現実の様にしているという(魔術的な)ことなのだわ、ということなんですよね。
そういう点から考えると、最近の哲学の本なんか(いや哲学に限らず本一般も)読まないという方ほど、本書の論点がつかみやすいのではないかと思うのですよね。
でも、もしかすると、フォイエルバッハよりもゲーデルの方が、本書の論点を説明するには適しているかもしれません。