断章89~91
また、細々と再開したいと思う。
断章89は習慣について記している、「習慣はわれわれの本性である。信仰に慣れる者はそれを信じ、もはや地獄を恐れずにはいられなくなり、ほかのものを信じない」そして「王は恐るべきものだと信ずることに慣れたる者」も同様だ。
したがって「われわれの霊魂も、数、空間、運動を見ることに慣れたため、それを信じ、それだけしか信じないのであるということを、誰が疑うであろう。」
「数・空間・運動」が示すものとは、自然科学のことではないのかな?
断章90「しばしば見るものについては、たといそれがいかにして起こるか不明でも、驚嘆しない。かつて見たことのないものは、もしそれが起こると、奇々怪々とみなす。キケロ(全文)
89とも関連か?慣れるということの問題点。
断章91 冒頭の「太陽の海綿」とは「蛍光塗料」のようなものであろうか?解説には「1604年にイタリアで発見された燐光を放つ石のことで、昼間日の光に当てておくと夜中に発光する」とある、ここでの比喩は、「これは当時の物理学上の定説をいろいろな点でくつがえしたので、この断章の適例として」上げたものとしている。
「われわれは、ある現象が常に同じように起こるのを見ると、そこから自然的必然性を結論する。たとえば、明日も日があるなどというごときである。しかし、自然はしばしばわれわれの予想を裏切り、自分自身の規則に従わない」
地動説しかり、相対性理論しかり、自分の直感で認識していることを、無批判に受け入れてしまう傾向はある、しかし、現実はもっと複雑に動いている。
断章89は習慣について記している、「習慣はわれわれの本性である。信仰に慣れる者はそれを信じ、もはや地獄を恐れずにはいられなくなり、ほかのものを信じない」そして「王は恐るべきものだと信ずることに慣れたる者」も同様だ。
したがって「われわれの霊魂も、数、空間、運動を見ることに慣れたため、それを信じ、それだけしか信じないのであるということを、誰が疑うであろう。」
「数・空間・運動」が示すものとは、自然科学のことではないのかな?
断章90「しばしば見るものについては、たといそれがいかにして起こるか不明でも、驚嘆しない。かつて見たことのないものは、もしそれが起こると、奇々怪々とみなす。キケロ(全文)
89とも関連か?慣れるということの問題点。
断章91 冒頭の「太陽の海綿」とは「蛍光塗料」のようなものであろうか?解説には「1604年にイタリアで発見された燐光を放つ石のことで、昼間日の光に当てておくと夜中に発光する」とある、ここでの比喩は、「これは当時の物理学上の定説をいろいろな点でくつがえしたので、この断章の適例として」上げたものとしている。
「われわれは、ある現象が常に同じように起こるのを見ると、そこから自然的必然性を結論する。たとえば、明日も日があるなどというごときである。しかし、自然はしばしばわれわれの予想を裏切り、自分自身の規則に従わない」
地動説しかり、相対性理論しかり、自分の直感で認識していることを、無批判に受け入れてしまう傾向はある、しかし、現実はもっと複雑に動いている。