110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

断章92~94

 この「パスカル」という項目では、パスカル著作「パンセ」の各断章を紹介し、手前勝手な注釈をしている。
 もし、あなたが「人間中心主義」ならばモンテーニュを読むがいい、パスカルは自然科学の筆頭でありながら、そこにはいないのだ、そして、私は、そういうパスカルが好きなのだ。

 断章92は、「われわれの自然的な原理というおのは、われわれがそれに習慣づけられた原理でなくてなんであろう。そして、子供たちにおいても、動物における獲物追求のように、父親たちの習慣から受けついだものでなくて何であろう。」と始まり、人間における習慣性について示唆している。
 そして「異なる習慣は、われわれに異なる自然原理を与えるであろう。それは経験によっても、そして第二の習慣によっても打ち消せない、自然に反する習慣も存在する。それは、人々の素質によることである。」(全文)

 「異なる習慣」により、私たちはより良い方法を得ることができるという楽観論が頭をかすめるのだが、その基本には「人々の素質」があるという「楔」も打ち込まれている。

 断章93
 「父親たちは、子供たちの自然な愛が消えてしまいやしないかということに恐れる。では、消えることがあるようなこの自然性とは、いったい何だろう」
 これに対して、「習慣は第二の自然性であって、第一の自然性を破壊する。しかし、自然性とは何なのだろう」と、再び「自然性」を取り上げる、そして「なぜ習慣は自然でないのであろう」とダメ押しをしてから、「私は、習慣が第二の自然性であるように、この自然性それ自身も、第一の習慣であるにすぎないのではないかということを大いにおそれる」と断章を結ぶ。

 「自然」もしくは「自然性」が、ある意味「真理」のような絶対的なものと考えるならば「習慣」は人間が作り出したものであり、本来の「自然」という絶対性には到達できないものだとも言えよう。
 その中で、私たちのできることは、そういう理想的な状態(ここでは自然性)に、限りなく近づいていく事だけなのだろうか。

 ちなみに、子供たちは、父親への自然な愛情を失っていく者がほとんどだと思う、それは何故だろう?
 この断章の語彙を使えば「習慣化」するからだといえる。

 断章94
 人間の本性はまったくの自然である。<全くの動物>
 どんなものでも自然なものとされ、どんな自然なものでも、そうでなくされてしまう。(全文)

 断章94-2
 人間は、本来<全くの動物>である。(全文)

 人間の業であろうか、本来「自然」であるのに、どんなものも「そうでなくされてしまう」。
 王様が触れるものがすべて金になるという話がある、それは、可笑しくも、悲しい話である。