生きるかなしみ(山田太一編)
本書は1991年筑摩書房刊行のもの、私は、ちくま文庫版で読む。
冒頭で編者は「いま多くの日本人が何より目を向けるべきは人間の『生きるかなしさ』であると思っている。人間のはかなさ、無力を知ることだという気がしている」と記す。
そして、編者が選んだ15名の様々な「生きるかなしみ」を味わうとしよう。
私は、高史明の「失われた私の朝鮮を求めて」が、一番印象に残った作品である。
例えば、国が壊滅させられた・・・ある時の日本のように、は、復興する可能性がある。
しかし、高氏が得たもの、それは、在日朝鮮人として、日本語で話し、日本語で考えることである。
だから、気持ちが朝鮮という母国を思いながらも、それを日本語であれこれ考えることになる。
これは、とても残酷な仕打ちではないだろうか?
朝鮮人としてのアイデンティティを持ちながら、侵略された国の言葉でそれを考える。
つねづね、自己矛盾に直面しながら、なお生きるとは、どういう心境なのであろう?
それは、想像ができない「かなしみ」であると思う。
冒頭で編者は「いま多くの日本人が何より目を向けるべきは人間の『生きるかなしさ』であると思っている。人間のはかなさ、無力を知ることだという気がしている」と記す。
そして、編者が選んだ15名の様々な「生きるかなしみ」を味わうとしよう。
私は、高史明の「失われた私の朝鮮を求めて」が、一番印象に残った作品である。
例えば、国が壊滅させられた・・・ある時の日本のように、は、復興する可能性がある。
しかし、高氏が得たもの、それは、在日朝鮮人として、日本語で話し、日本語で考えることである。
だから、気持ちが朝鮮という母国を思いながらも、それを日本語であれこれ考えることになる。
これは、とても残酷な仕打ちではないだろうか?
朝鮮人としてのアイデンティティを持ちながら、侵略された国の言葉でそれを考える。
つねづね、自己矛盾に直面しながら、なお生きるとは、どういう心境なのであろう?
それは、想像ができない「かなしみ」であると思う。