110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

断章105~108

 断章105は、「あることについて人の判断を求めるときに、その説明の仕方でその人の判断を雲らさないようにするのは、なんと難しいことだろう」と始まる、人が何かを話すときに意識的にも無意識的にも自身の評価を加えていることがある、だから「私は、これを美しいと思います」とか「私は、これを不明瞭と思います」と言うことで「相手の想像をその判断へと引き込むか、あるいは反対のほうへ追いやることになる」それならば「何も言わないほうがましである」そうすれば「彼があるがままの状態に従い、そしてわれわれが作り出したのではない別の状況がもたらした状態に従って判断することになる」少なくとも「われわれは、何も加えなかったことになるわけである」ただし、相手が考えすぎて「この沈黙をどう推測するかによって、こうして黙っていることが影響をおよぼすとすれば別である」このように、「一つの判断を本来の座からはずさないようにするのは、こんなにむずかしいことなのである。というよりはむしろ、判断がしっかりした座を持つということは、こんなにも少ないのである」
 素晴らしい一章である。

 断章106は、「各人の支配的な情念を知っていれば、その人に気に入られること請け合いである。ところが各人は、幸福について持っている観念そのもののなかに、自分自身の幸福に反するような、かってな考えを持っている。これは桁外れに奇妙なことである。(全文)」
 そうかな?
 おこがましいようだが、それが「人間」というものであるような気がする。

 断章107は、「私は私の内部に私の霧や晴天を持っている。私の仕事の成否でさえも、たいして影響しない」・・・われわれは、断章106のように不安定なものだから「ときどき私は、運に抗して努力する」し反対に「私はときどき幸運のなかで、いやがってみる」

 断章108は、「人々が、その言っていることに利害関係をもっていないからといって、その人たちが嘘をついていないと、絶対的に結論するわけにはいかない。なぜなら、ただ嘘をつくために嘘をつく人もあるからである(全文)」

 例えばクレタ人とか(という低俗なギャグはまずいか!)
 真面目に考えると、この断章でいう「利害関係」とは、私から見たときのものであり、嘘をつく側から見ると嘘をつくことでなんらかの「利害関係」を満たしているとも言えるのではないだろうか?