精神としての身体(市川浩著)
本書は勁草書房刊行のもの(1975年が第1刷)。
本書は講談社学術文庫版で以前読んだ。
だから再読になる。
身体論や哲学に引き込まれた原因はよく分からないながらも本書を読んだことにある。
そして、再読する時は読書に興味を失ったときや、何十年か経ってもう読書する気力も失せたとき、有終の書としたいと思っていたのだ、だから、オリジナルの勁草書房版を用意していたのだが、ふと読んでみると面白い、数年前の読み方とは違って少し理解はできるようになったようだ。
しかし、まだ浅い、再び読むとき、三読のときまでまた読書を重ねよう。
精神と肉体はひとつだ、何故かと言われても説明し難い、でも直感的にわかる。
あたかも精神が意識として顕在化しているように思えるので精神の優越を認めてしまうことがある。
しかし、それは間違っていると思う。
私の感覚器官が、そう目や鼻や耳が効かなくなったら、私の世界観はどうなるのだろう?
もし、赤ん坊のときに感覚を閉ざされていたら、人間でありえたのだろうか?
私たちは明らかに個別であるが、社会というものを造り、その中に普遍なものを存在させようとしている。
しかし、それは虚しく実現不可能なことあるのだが、それでもあくことなくそういうものを信じていこうというのが人間なのだろう。
ということで、最近読書量は激減したが、まだ少しづつは読んでいる。
本書は講談社学術文庫版で以前読んだ。
だから再読になる。
身体論や哲学に引き込まれた原因はよく分からないながらも本書を読んだことにある。
そして、再読する時は読書に興味を失ったときや、何十年か経ってもう読書する気力も失せたとき、有終の書としたいと思っていたのだ、だから、オリジナルの勁草書房版を用意していたのだが、ふと読んでみると面白い、数年前の読み方とは違って少し理解はできるようになったようだ。
しかし、まだ浅い、再び読むとき、三読のときまでまた読書を重ねよう。
精神と肉体はひとつだ、何故かと言われても説明し難い、でも直感的にわかる。
あたかも精神が意識として顕在化しているように思えるので精神の優越を認めてしまうことがある。
しかし、それは間違っていると思う。
私の感覚器官が、そう目や鼻や耳が効かなくなったら、私の世界観はどうなるのだろう?
もし、赤ん坊のときに感覚を閉ざされていたら、人間でありえたのだろうか?
私たちは明らかに個別であるが、社会というものを造り、その中に普遍なものを存在させようとしている。
しかし、それは虚しく実現不可能なことあるのだが、それでもあくことなくそういうものを信じていこうというのが人間なのだろう。
ということで、最近読書量は激減したが、まだ少しづつは読んでいる。