内省と遡行(柄谷行人著)
本書は講談社学術文庫版で読む。
子供の質問に答えるのは難しいことがある、それは本質をついている場合があるからだ。
一見当たり前のように思えることがよく考えてみるととんでもない奇跡的なことから発生していることがある、目の前にもある・・・「何で我々はここにいるのか?」。
簡単にごまかすならば、「お父さんとお母さんがいて、さらにその前の人がいて、さらに前の人がいて、そういう前の人たちの活動の積み重ねで今の私たち(の世界)があるのよ」・・・なんてことを言うのだが、すかさず、「その始まりの最初の人は誰なの?」なんて聞かれると、「誰だろうね多分いるんだけれど、遠い昔のことだからわかんないのよねぇ」・・・なんてごまかすわけだ。
しかし、よく考えると、その始まりとはいつなんどきなんだろう、人間の始まり、宇宙の始まり、言葉の始まり、文明や文化の始まり、多分、いつかあったんだろうけれど、それがよく分からないのだ。
さらに、そんな始まりのことを考えると、その始まりの前はどうなってたのか?などという深みにはまってしまうこともある、こうなると泥沼状態だ。
そういう根本的な問いが哲学の問題の一つであるわけだが、それをいきなり形而上とか超越とかイデアという「切り札(逃げ道)」を出すのは人情としては理解できるが、それをあえて避け、問い続けるのは相当な忍耐(知力はもちろんだろうが)がいることだろう。
本書はそういう根源の問いを追求する著者の取り組みであり、浅田彰が最後に「戦争の記録」という解説を書いているのだが敗北の記録なのだ。
しかし、それでも本人自らそして誰か後継者が問い続けることは無駄ではないはずだ。
人間ってそういうもののような気がするのだ。
でなければ・・・・ね?
子供の質問に答えるのは難しいことがある、それは本質をついている場合があるからだ。
一見当たり前のように思えることがよく考えてみるととんでもない奇跡的なことから発生していることがある、目の前にもある・・・「何で我々はここにいるのか?」。
簡単にごまかすならば、「お父さんとお母さんがいて、さらにその前の人がいて、さらに前の人がいて、そういう前の人たちの活動の積み重ねで今の私たち(の世界)があるのよ」・・・なんてことを言うのだが、すかさず、「その始まりの最初の人は誰なの?」なんて聞かれると、「誰だろうね多分いるんだけれど、遠い昔のことだからわかんないのよねぇ」・・・なんてごまかすわけだ。
しかし、よく考えると、その始まりとはいつなんどきなんだろう、人間の始まり、宇宙の始まり、言葉の始まり、文明や文化の始まり、多分、いつかあったんだろうけれど、それがよく分からないのだ。
さらに、そんな始まりのことを考えると、その始まりの前はどうなってたのか?などという深みにはまってしまうこともある、こうなると泥沼状態だ。
そういう根本的な問いが哲学の問題の一つであるわけだが、それをいきなり形而上とか超越とかイデアという「切り札(逃げ道)」を出すのは人情としては理解できるが、それをあえて避け、問い続けるのは相当な忍耐(知力はもちろんだろうが)がいることだろう。
本書はそういう根源の問いを追求する著者の取り組みであり、浅田彰が最後に「戦争の記録」という解説を書いているのだが敗北の記録なのだ。
しかし、それでも本人自らそして誰か後継者が問い続けることは無駄ではないはずだ。
人間ってそういうもののような気がするのだ。
でなければ・・・・ね?