3000冊
始まりの日付は定かではないのだが、2006年のとある日から1冊本を読むと、題名、著者、翻訳者/編集者など、出版社、××文庫などの名称をExcel形式のシートに記録するようになった。
2006年頃というのは、144冊めから日付を記録するようになりその日付が2007年3月17日だったことから類推したものだ。
2006年と言えば10年以上前で、いわゆる「ひとむかし」なわけで、今の状況とはずいぶん異なる。
大きな事件は、やはり父親が亡くなったことだろう、その前の一般的には「介護」と言われる状況の時は大変だったが、これは親がいれば誰しも大なり小なり直面することだから、殊更何かを言うこともなかろう。
皆さんご存知の様に、介護保険やなにやら国の制度、民間のサポートもあるけれども、それでも、殆どの人はサービスの不足や金銭的な問題に直面するだろう。
また、悪質な業者を見分けられるかどうかもなかなか難しい問題だ。
身も蓋もない意見だが、直面したその時にどう決断するか(したか)、ただそれだけだろう。
後で、自分が年取って被介護者になった時に、その回答がわかる仕掛けだ。
なにか脱線してしまった。
ちなみに、2999冊目は、倉田百三「超克(角川文庫版)」であった。
実は、これで記録上3000冊だと思ったら、最初の方は、未読でもリストに記録していた。
幸い、それで漏れたのが1冊だけだったので、記録上の3000冊目は、本居宣長「うひ山ふみ/鈴屋答問録(岩波文庫)」であった。
まぁ、年取って一つだけ理解できたことは、あきらめないで続ければ、芽がでるかもしれないこと。
3000冊なんて数字が目の前にくるとびっくりするけれども、当然、もっと読破している人もいっぱいるし、暇人だったんだという証明でしかない。
忙しい現代人は本など読まずにエッセンスを会得すれば良いのだ。
短期的には、確かにそうなんだけれど、長い目で見ると底が浅くなるから、どこかで棚卸した方が良い。
時間を掛けることも無駄ではない時期があるってことだ。
で、この3000冊で何か効果があったのかい?なんて、意地悪(?)な興味を持つ人もいらっしゃるだろう。
些少ながらあったのだ、びっくりしたね。
まずは、少なくとも私は理系ではないことがわかった。
見栄をはって、数学関係の本を仕入れたりしたがろくろく読みこなせない。
ただし、フェルマーの定理が解決されたいきさつを書いたような、数学に絡んだ物語は大好きだが、数式は飛ばしている。
また、これに関係あるのかどうかわからないが、明治頃の漢文調(漢字仮名交じり文)の文章がなんとなく読めるようになった、最近の本はそういう文章を引用するときに、わざわざ現代語風に翻訳?をつけたりしていることがあるが、最近は「何で2度書いてあるの?」と思うことがある。
「門前の小僧・・・」もあながち嘘ではないのだ。
「だからどうなのよ」と言われると恐縮してしまうが、まぁ、読めないよりはよかろう。
最近、古い本と岩波文庫に少し惚れている。
わけあって2999冊目になったが、倉田百三の「超克」などすさまじい本だ、今の普通の人は読み通せるのかなと心配してしまう。
自分の愛する女をその生活からなにから責任を持つ意志があるのなら、その女を犯しても最善の選択だ・・・みたいな「男の情熱ほとばしる文章」に接して、「それでも相手があなたを嫌いだと言ったらどうするの」みたいな、現在風のツッコミをいれたらもう読めないよね、そうそう、この本は著者の倫理観についての本だということも参考になると思う。
でもね、それは今の目線で見ているからだと思うし、変に、常識みたいなもの、普遍的なものがあると錯覚しているだけだよね。
ポストモダンなどという言葉を理解してない私が持ち出すのは僭越だけれども、そのポストモダンの現在は、価値観が多様化して普遍化できない状況なんだよね。
そして、一見、悪の権化みたいな上記の考え方も、あなたにあるかは分からないけれども、少なくとも私の奥の方を覗いてみればあるんだよね、そういうドロドロしたやつが。
それを、あると意識するか、意識しないかは、これは大きな問題かもしれないよね、聖人はべつだけれども。
倉田百三がそういう犯罪を犯したという記録は無い、しかし、現在は、そういう犯罪を犯す人もいる。
普遍的なとか理性的とか常識とかに隠してしまって、自分の中にある「そういうもの」をきちんと見つめないで済ますということはとても怖いことなのかもしれないね。
2006年頃というのは、144冊めから日付を記録するようになりその日付が2007年3月17日だったことから類推したものだ。
2006年と言えば10年以上前で、いわゆる「ひとむかし」なわけで、今の状況とはずいぶん異なる。
大きな事件は、やはり父親が亡くなったことだろう、その前の一般的には「介護」と言われる状況の時は大変だったが、これは親がいれば誰しも大なり小なり直面することだから、殊更何かを言うこともなかろう。
皆さんご存知の様に、介護保険やなにやら国の制度、民間のサポートもあるけれども、それでも、殆どの人はサービスの不足や金銭的な問題に直面するだろう。
また、悪質な業者を見分けられるかどうかもなかなか難しい問題だ。
身も蓋もない意見だが、直面したその時にどう決断するか(したか)、ただそれだけだろう。
後で、自分が年取って被介護者になった時に、その回答がわかる仕掛けだ。
なにか脱線してしまった。
ちなみに、2999冊目は、倉田百三「超克(角川文庫版)」であった。
実は、これで記録上3000冊だと思ったら、最初の方は、未読でもリストに記録していた。
幸い、それで漏れたのが1冊だけだったので、記録上の3000冊目は、本居宣長「うひ山ふみ/鈴屋答問録(岩波文庫)」であった。
まぁ、年取って一つだけ理解できたことは、あきらめないで続ければ、芽がでるかもしれないこと。
3000冊なんて数字が目の前にくるとびっくりするけれども、当然、もっと読破している人もいっぱいるし、暇人だったんだという証明でしかない。
忙しい現代人は本など読まずにエッセンスを会得すれば良いのだ。
短期的には、確かにそうなんだけれど、長い目で見ると底が浅くなるから、どこかで棚卸した方が良い。
時間を掛けることも無駄ではない時期があるってことだ。
で、この3000冊で何か効果があったのかい?なんて、意地悪(?)な興味を持つ人もいらっしゃるだろう。
些少ながらあったのだ、びっくりしたね。
まずは、少なくとも私は理系ではないことがわかった。
見栄をはって、数学関係の本を仕入れたりしたがろくろく読みこなせない。
ただし、フェルマーの定理が解決されたいきさつを書いたような、数学に絡んだ物語は大好きだが、数式は飛ばしている。
また、これに関係あるのかどうかわからないが、明治頃の漢文調(漢字仮名交じり文)の文章がなんとなく読めるようになった、最近の本はそういう文章を引用するときに、わざわざ現代語風に翻訳?をつけたりしていることがあるが、最近は「何で2度書いてあるの?」と思うことがある。
「門前の小僧・・・」もあながち嘘ではないのだ。
「だからどうなのよ」と言われると恐縮してしまうが、まぁ、読めないよりはよかろう。
最近、古い本と岩波文庫に少し惚れている。
わけあって2999冊目になったが、倉田百三の「超克」などすさまじい本だ、今の普通の人は読み通せるのかなと心配してしまう。
自分の愛する女をその生活からなにから責任を持つ意志があるのなら、その女を犯しても最善の選択だ・・・みたいな「男の情熱ほとばしる文章」に接して、「それでも相手があなたを嫌いだと言ったらどうするの」みたいな、現在風のツッコミをいれたらもう読めないよね、そうそう、この本は著者の倫理観についての本だということも参考になると思う。
でもね、それは今の目線で見ているからだと思うし、変に、常識みたいなもの、普遍的なものがあると錯覚しているだけだよね。
ポストモダンなどという言葉を理解してない私が持ち出すのは僭越だけれども、そのポストモダンの現在は、価値観が多様化して普遍化できない状況なんだよね。
そして、一見、悪の権化みたいな上記の考え方も、あなたにあるかは分からないけれども、少なくとも私の奥の方を覗いてみればあるんだよね、そういうドロドロしたやつが。
それを、あると意識するか、意識しないかは、これは大きな問題かもしれないよね、聖人はべつだけれども。
倉田百三がそういう犯罪を犯したという記録は無い、しかし、現在は、そういう犯罪を犯す人もいる。
普遍的なとか理性的とか常識とかに隠してしまって、自分の中にある「そういうもの」をきちんと見つめないで済ますということはとても怖いことなのかもしれないね。