わが母の記(井上靖著)
本書は講談社文庫版、昭和52年刊行のもの。
今となっては、随分古い作品だと思う。
著者が自身の母親の老いていく姿を著したものだが、読んでいると、ちょうど現在私が母親を介護していて感じたことと、妙に符合するのだ。
本書では、著者の母親はあきらかに認知症の状況であり、私の母親の方が若干良いのかななどと思うのだが、それでも、日付や時間を間違えることや、同じことを何回も言ったりとか、本人は話を合わせるつもりで言っていることが、完全にとんちんかんだったりすること考えると、老いるということには、何か共通することがあるのだろう。
まだまだ、若い人たちは、そういう不合理に付き合えないことも多いだろうし、私も、たまに閉口することもあるのだが、かれこれ、10年くらいつきあっていると、彼女にも彼女なりの何か考えがあるんだろうな…と、まぁ、妙な理解の仕方をするようになった。
だから、本書に、軽井沢の九月、母親と対峙した著者に「雪が降っていますね」と語った、呆けた母親の気持ち、それ自体は当然わからないけれども、彼女が「雪が降っている」と感じていることは肯定してしまう気もちがある。
もしかすると、それは、正しいことかもしれないしね。
禅問答みたいかもしれないね?
でも、そういう、余裕とか寛容みたいなものが無いと、人間がただ生きるということが(仏教の教えにある様に)地獄にいるということになってしまうのではなかろうかね。
今となっては、随分古い作品だと思う。
著者が自身の母親の老いていく姿を著したものだが、読んでいると、ちょうど現在私が母親を介護していて感じたことと、妙に符合するのだ。
本書では、著者の母親はあきらかに認知症の状況であり、私の母親の方が若干良いのかななどと思うのだが、それでも、日付や時間を間違えることや、同じことを何回も言ったりとか、本人は話を合わせるつもりで言っていることが、完全にとんちんかんだったりすること考えると、老いるということには、何か共通することがあるのだろう。
まだまだ、若い人たちは、そういう不合理に付き合えないことも多いだろうし、私も、たまに閉口することもあるのだが、かれこれ、10年くらいつきあっていると、彼女にも彼女なりの何か考えがあるんだろうな…と、まぁ、妙な理解の仕方をするようになった。
だから、本書に、軽井沢の九月、母親と対峙した著者に「雪が降っていますね」と語った、呆けた母親の気持ち、それ自体は当然わからないけれども、彼女が「雪が降っている」と感じていることは肯定してしまう気もちがある。
もしかすると、それは、正しいことかもしれないしね。
禅問答みたいかもしれないね?
でも、そういう、余裕とか寛容みたいなものが無いと、人間がただ生きるということが(仏教の教えにある様に)地獄にいるということになってしまうのではなかろうかね。