110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

足の裏は語る(平沢や一郎著)

 今回の著者名はついに漢字変換できなかった。
 これは、お詫びのしようがないことだ。

 さて、このBlogは「歩く」が柱なのだから、「歩く」ことや「足」などの言葉に、関連のある書籍で知識を増やしていく事も必要だと思う。
 現に、長い距離を歩く時は、いかにして「身体への負担」を減らし、「体調異常」に注意していくかという事を体験しながら覚えてきた。
 それ向きの面白い本が無かった事もあるが、単に「健康のためのウォーキング」とも違和感があったから、その手の本を書店で手に取る事はあっても買う事はなかった。
 しかし、この本は面白く、更に参考になった。

 この作者は「ピドスコープ」なる足の裏を測定する機械を自分で開発した。その機械を元に、出版当時で40万人の人の様々な足の裏を見てきたと言う。
 昭和四十四年秋、東京・晴海の展示場で、初めて六九型ピドスコープを一般公開した。・・・
 初日の午後、一人の年配の紳士が訪れ、「ぜひこの装置でわたしの体を診断して欲しい」と言われるのである。そこで、素足をきちんと揃えて、この装置の上に立って貰った。周りには百人以上の人が見学している。そこで、「あなたは、もしかしたら右の耳が・・・」とまで言った時、その紳士の顔が真っ青になり、「その通りです。どうしてそれが分かりますか」と訊ねられた。この方はN大学工学部の教授であった。右の鼓膜がなかったのである。・・・」
 足の裏は、普段まず見る事は無いが、その人の様々な状況に応じて(例えば、緊張した時など)、様々な変化をするという。また、体調の変化についても敏感に表現するものらしい。

 さて、この本の中には「歩く」に関しての語源が載っていた。
 「あるく」の語源もまた足の裏に深いかかわりをもつことばである。これはもともとは「あし(足)くり(繰り)ゆく(行く)」からきたものである。人間は片足歩行である。そこで左右の足の裏を大地に交互に繰り返しながら着地させて前進する。「あしくりゆく」の中の「あ」と「り」と「く」が残り、やがて「あるく」になった。あるいは、「あるく」は、「両脚ヲ互ニ繰返シ動カシテ、進ミ行ク。」ともいう(『大言海』)。『方丈記』には、「常ニありき、常ニハタラクハ、養生ナルベシ」とある。・・・
 これで、本Blogもやっと「表題の語源」が分かったわけだ。

 その他、いささかお説教の様にも受取られそうな文章だが、私にとって、とても重要な事を教えてくれる文章を抜粋する。
 靴を大切にする人は、足を大事にする。足を大事にする人は、体に細心の注意を払う。また、そういう人は、自分で努力さえすれば、いくらでも体力が増し、丈夫な体になれるといった、安直で傲慢ともいえる考えをもたない。体は、あくまで先祖からの大切な遺産であり・・・
 そういえば、靴は大切にしていない。
 履きつぶしている、これは改めないといけない。
 遂に、一回100Km程度歩く事が出来たが、これは、自分が得意な体力を持っていたからだ、とは思っていない。これは、少しづつ、距離を伸ばしてきて達成できた事であり、正常な人ならば、誰でも、いずれ出来る事だと思う。上を見あげれば、ランニングで100Km走る人、そして更に強靭なトライアスロンなどやられる方も大勢いらっしゃる。ただし、今日・明日、すぐには出来ない事なのだ。

・・・アメリカのインターナショナル・インクワイヤー社の特派員が、「足の裏から見た人類の未来」について、こんな質問をした。「もし人類が滅亡するとしたら、最後に残る民族はどこか」と。そこで、「最後まではだしで生活をする民族であろう」と答えた。するとこんどは「その根拠はなにか」と食い下がってきた。「靴を履かなければ、生きていけないほど足が弱くなったからだ。それが根拠の第一。第二は靴を履いたことによって、地球という大地の恩恵を足の裏からジカに受ける事を忘れてしまったからである」と答えた。・・・
 これは、少し気になっている「モダニズム」や「ポスト・モダン」とも関連がありそうな意味がありそうだ。

 そして、「第5章 足の裏から見た健康と寿命」で意外な事が書いてある。
 六十七年間のわたしの経験から言って、精神が本当に健全であるのは、決して馬のような健康に恵まれている時では無い。精神が真の健康状態に復し、自己を深く反省し、真実を求め、幼子のような純真なハートで、他人のためにすべてを投げ出すことができたのは、多くは健康をうばわれ(肺病で死の宣告を受けたことがある)、財産を奪われ、愛する者を奪われて、世間的にはすっかり「不健康」になった時のみであった。
 また、
 この「名医」(聖書に書かれた教えのこと、・・・私的に注記)が、いつとはなしに人間の幸福と言うものを教えてくれた。それは、健全でない身体が、必ずしも不幸では無い。人生の最大の不幸は健全でない精神である、ということである。そして、健全な身体と精神の両方が与えられるということは、そんなことは、稀有なことであることも、わたしはこの「名医」から学んだ。
 医学博士の平沢氏がこういう文書を書くことは、とても勇気がいることだと思う。
 そして、なるほどなぁ・・・と思った。
 ただ、注意しなければならないのは「不摂生」を容認しているのではないこと。

 さて、最後は、私の好きな「アシックス(Asics)」についての記述。
 ・・・神戸のアシックスからは、われわれの共同研究によって「ペダラ」(命名平沢)という、ウォーキング専用の靴を開発した。なお「アムフィット」を開発し、ユーザーの左右の足の裏にかかる力の配分に応じたインソールが、「ペダラ」を始めとして、各種のスポーツシューズに合わせて市販されている。・・・
 このBlogを開設した当初に「Asics」の靴が好きだとコメントした。
 その時も書いたが、「Asics」の靴は「マメ」が出来ても歩けるのだ。
 この効果は大きい。
 私が、歩くのを途中でやめるのは、体力よりも、気力よりも、物理的に障害が起きる事(マメ、靴擦れ、膝関節痛など)が一番だ(気候という場合もあるが、これは、装備(準備)の問題)。
 そして、Asicsのホームページを見ると、上記「アムフィット」は、現在も健在であった。

 平沢氏の「足の裏研究」は、些細な事に思える事を長い事かけて研究した成果で、様々な事を教えてくれる。
 それは、のんびりとでも、毎日「歩く」を積み重ねていく事と、共通している事があるように思う。
 そして、それは身体の健康のが第一の目的では無い。