110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

共通感覚論(中村雄二郎著)

 1979年に刊行さててその後文庫本化された著作。
 既に30年近くたっているのに今読んでも良い。

 話は大幅にそれるが、立花隆氏のコラムで「『哲学』の崩壊は憲法問題」というのがあり、憲法問題については置いておいても、哲学という学問自体の人気がなくなっているようだ。
 人気が無いから、その必要性や重要性は考慮されず、そのために教授の数が減り、そのために全体のレベルが下がるという「悪循環」におちいることが予想される。
 それは、大変な事だと思う、それはここ1年ばかり、哲学や思想を中心に読書するようになって、その重要性が体感できる。

 さて、殺伐としてきた現代だが、残酷な犯罪に対して「心の闇」などという表現を聞いた事がある。
 しかし、「心の闇」などというものは、ほぼ全ての人にある事で特別な事では無いと思う。
 「全ての人」などと一般化するのは、本意で無いので、「私」に付いていうと「私にも私の全てがわかっているわけではない」のだ、これは、主観、客観問題であり、少なくとも、他者が本当に何を考えているか、そして、自分が何者なのかは、「私」にも、わからないのだ。
 だから、「道徳」とか「倫理」とか、もっと直接的に「法律」だとかいうモノで統制をする。
 しかし、「道徳」が廃れてきたなどといわれているが、これも、根本問題として、底流に流れている問題点を抑えていないで、結果だけを見て判断しているような気がする。
 さて、「道徳」まで来たので、これを、するりと「常識」と言葉をすりかえてしまうと、本書の「共通感覚論」の範疇になる。
 他者について、間接的にしか理解できない「主体」が、どのように「常識」「共通感覚」を持つのだろうか、そして、もし、その「共通感覚」を得られないならば、もしくは、今まであった「共通感覚」が崩れるのならば、何が起きるのだろうか?
 そういう事を考えながら読みすすめた。

 チェックしたのは、M・エンデの『モモ』からの引用で時間について記述したところ。
・・・<時間の国の主>が、人間には時間というものを感ずるために心というものがある、・・・<<時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながらもまねて型どったものなのだ>>・・・<<光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある>>・・・
 この『モモ』の話で語られる<時間どろぼう>については「なるほど」と感心してしまった。

 また、現代において衰退した機能としては「記憶」があると指摘している、当然、書物からはじまり、テキストや画像を、簡単に検索・入手できる現代は、何かを記憶すると必要性が低下し、退化する。
 短期的にはそれで良いのかもしれない、しかし、良く考えていただきたい、あなたが何か問題を抱えていて「判断」「決断」をするときの足がかりは何だろうか?「記憶」はその時に意識しようとしまいと、その土台になるのだ。
 すなわち、歴史上において記憶が、時間だけでなく場所やイメージと密接な結びつきを持った人間精神の本質的な営みとしてとらえられたこと、共通感覚の明確化に応じて記憶が知性化され、実践的な徳である賢慮(プルデンチア)に到る道とされたこと、共通感覚の場所は心臓か脳かということのうちに、きわめて現代的な問題が含まれていること、などを私たちは見出すことができた。
 本書で扱っている内容は幅が広く、興味が尽きない、上記の引用はあくまで一部だ。
 そして、この、既に30年程前に著された内容について考えると、私的には、今日のある種の問題点の底が見えてくるような気がする。
 
 更に余談だが、1980年代が多いと思うが、当時の良書が、今は文庫や新書で安く手に入る、とても良い事だ。
 しかしながら、情報はすぐ手に入るが、それを読むスピードは上がらない、普段から読む癖をつけないといけないと痛感した(し続けている)。