110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

清武英利著「とんがら」の抜粋・・・トヨタの職人的エンジニアの苦悩

bunshun.jp

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「ワクワクしないクルマばかり」「そつがないけど何かつまんない」…自動車メーカーのエンジニアたちが心を折られた“忘れられないひと言”
『どんがら』より#1
清武 英利
「絶対に売れない、儲からない」と言われながらもトヨタ自動車でスポーツカーを懸命に作り続けた男たちを描いたノンフィクション『どんがら』。エンジニアたちはどのように開発に取り組んでいたのか。彼らの栄光と苦悩に満ちた日々を一部抜粋してお届けする(全2回の1回目/後編を読む)
◆◆◆
会議が多ければ売れる車になるとは言えない
 車の開発は、Zのチームを中心に数百人が加わって何年もかけ、数百億円から、スポーツカーに至っては(スープラがそうだったように)一1000億円も投資する大事業だ。工場の生産ラインやボディのプレス型を作り、時には新型エンジンを開発しなければならない。そのため、プロジェクトの節目で進行状況をチェックする会議や役員会が頻繁に開かれる。
 コロナ禍以前のトヨタは、会議のたびに世界中から役員を集めていたから、その数も多く、主だったものを挙げても、複数回の商品企画会議に始まり、開発目標確認会議、製品企画会議(これも開発を決定する会議と生産準備開始を決める会議がある)、原価企画会議、アイデア選択会、デザイン審査、社長臨席の商品化決定会議、号試移行確認会議……と、恐ろしいほどの関門がある。
 そして初めて生産が開始される。元商品企画部幹部が言う。
「こんな車を作れば月産何万台が売れて、これだけ会社が儲かる。投資に見合ったリターンが必ずある、ということを役員会で証明し、最後に社長の了承を得なければなりませんからね」
 会議が多ければ売れる車になるかと言えば、そうとばかりは言えない。「船頭多くして船山に上る」の例え通りに、斬新なデザインは角をそがれ、どうしても万人受けする車に落ち着く傾向にある。だから、Zのヌシだった和田のように、
〈常に大勢集めての会議を控える。会議中に仕事は停まっていると思うべき〉(「チーフエンジニアの心掛け」その八)
 と唱える役員もいた。和田のような人物がいると一時的に会議は減る。

だが「俺はその件、聞いてなかったぞ」という幹部が…
 ところが、しばらくすると、幹部から「俺はその件、聞いてなかったぞ」とか、「一体どうやって進めているんだ」という声が起き、結局、名前を変えて同じような会議が復活するのである。
 3月下旬、はるか彼方の重要会議を目指して、技術本館会議室に4人の技術者が集まっていた。
 出席者はエンジン担当者たちが2人、車両企画部スポーツグループマネージャーなった多田、それに翌月から正式な部下となる今井。小さな集まりだが、今井にとっては初の会議である。
 議題はただひとつ、どんなエンジンを使って、どんなスポーツカーを作るのかということだった。そのためにまずはエンジンの専門家を呼んで意見を聞こうとしていた。

「スポーツカーのエンジニアは、痩せたソクラテスであれ」
 多田は今井を含めた3人の意見を聞く方に回った。この2カ月間に彼はすっかり健康を取り戻して血色もいい。朝食も食べて出社するようになっている。以前は何とか腹に入れても、歯磨きをしているときに洗面所で吐いてしまうことがあった。
 頼りない希望であっても、それは人間に意欲と食欲をもたらすのだ。妻の浩美はそれをよく承知していて、毎朝、食卓に味噌汁や卵料理、鯵の開きといった定番に加え、煮物のような一品を付けたりしていた。そのために彼は一時、10キロも太って、慌ててダイエットをすることになった。
「スポーツカーのエンジニアは、痩せたソクラテスであれ」というのが、彼の小さなポリシーである。
 さて、小会議である。選択肢は無数にあった。
「うちが得意のハイブリッド車はどうですか」
「やっぱり、FRの車を作れませんかね」
「いや、四駆を使って、コンパクトな面白い車作れないかな」
「他社のエンジンを使ったスポーツカーという手もありますね」
「でも面白さで言うと、FRしかないよね」
 車好きのエンジン技術者らがスポーツカーの夢を語るのだから、話は専門的でどこまでも広がっていく。すると、一番年下の今井が決めつけるような言い方をした。

「欲しいのはやっぱり…」
「欲しいのはやっぱりコンパクトなFRでしょう。だったら、ハチロク復活に決まってますよ」
 無邪気に見えるが、眼鏡の奥の目は笑っていない。彼の率直で飾らない物言いに多田は驚いて、「おいおい」とたしなめた。エンジンの担当者たちは笑って、今井の言葉を聞き流そうとした。特定の車について語り始めると、話が続かなくなる。
「まあ、今井が言うならハチロクだろうけどな」
 今井がそのハチロクしか乗らないことは技本では有名だった。独身の今井は周囲から少し浮いて、出世を急がないところがある。だが、当人は自分が変わっているとは思っていなかった。技術部の若手には自分のような人間がいっぱいいて、俺はみんなを代弁しているだけだと考えている。
 確かに、その場を仕切る多田も「スポーツカーはやはりFR車でなくてはいけない」と思っていた。
 FRとは、フロントエンジン・リアドライブの略で、要は後輪駆動車である。車のフロント部に載せたエンジンの動力を、プロペラシャフトを介して後輪に伝えている。中心部に重心を置き、後輪で駆動し前輪で舵を切るので、カーマニアはたいてい「素直なステアリング感覚が得られる」と言う。「FR車はスポーツカーの代名詞なんですよ」とは多田の弁である。
「ここはこだわりの世界なので、言葉でうまく説明できないんだけど、乗り味がいいんです。後輪駆動だとドリフトがしやすいし、走りの性能に加えて、味わいがあるんだね。リア(後輪)を滑らす感覚というのはとても面白いんです。
 僕も昔、やっていたラリーはやはりFR車で、三菱ランサーとか、ハチロクでしたね。速さでは四駆にかなわないが、人馬一体、車をコントロールしているという感じがすごくある。俺がこの車をうまく走らせてるんだ、という感覚が伝わってくる。だから、いまだにサーキットでもハチロクのような古い車で走りに来る人がいるんですよ」

ヴィッツのようなファミリーカーが増えている中、会議で出されたのは…
 その日の小会議は、結論や参加者の合意を得るのが目的ではなく、多田の考えを少しずつまとめるためのものである。だからアイデアや知識を披露するだけでも、言いっぱなしでも構わなかったのだが、今井だけは「やっぱりハチロクに決まってる」としつこく繰り返して言った。彼はその言葉を告げるために、その場にいるのだと信じていた。
 ──多田さんも同じことを考えているんだ、きっとな。
 今井はむしろ、多田が自分を使って「ハチロク復活」と言わせているのだと考えていた。確かにそれは、多田の心の中にあった車の名だったのである。
 4月に入って、多田たちは商品企画部の面々と、半日を費やす会議を開いた。今度は営業面や市場の動向について意見を聞くためである。
 今井は事前に「自分が開発したい車のパッケージ図を描いて持ってきてくれ」と言われていた。パッケージ図は、車のどこにエンジンや乗員を配置するかを描いた構想図で、車の開発はここから始まるのだが、今井が持参したのは、FR車で4人乗り、どうみてもハチロクのシルエットだった。トヨタの車、特にファミリーカーは人気車種のヴィッツがそうだったように、丸まってボンネットの背が高い車が増えていたが、その逆を行く、極端に背の低い軽量スポーツカーである。
 ──まんまハチロクだな。
 今井は説明を加えながら、心の中でそうつぶやいていた。
 といっても、かつてのハチロクを復元するわけではなく、ハチロクのような、ちょっと無理をすればだれにも買えて、部品を取っ替え引っ替えすることができるスポーツカーである。
 彼の頑固さはしばしばボスの多田をうんざりさせながら、やがて増員されるスポーツグループの鼻面を強く引き回していく。
 ただ、営業や海外のディーラーには、「スープラを復活させてくれ」という声が強かった。スープラは馬力のある上級スポーツカーだ。北米で人気のあった日産フェアレディZに対抗し、1978年から計4代にわたって作られたが、2002年に生産を終了している。その復活を求める声が強いということは、海外のスポーツカーマーケットには需要があるということである。

トヨタの車はワクワクしない」「どうせ役員会の多数決で決まる」
 その一方で、多田は安いスポーツカーを、それもかつての「ヨタハチ」と2000GTのいいところを取り入れて作りたいと思っていた。
 ヨタハチはトヨタ・スポーツ800の愛称で、1965年から四年間製造された小型のスポーツカーである。一足先に発売されたホンダS500のライバル車で、燃費もいい先進的な車だったから、1967年から販売されたトヨタ2000GTととともに幻の名車と評価されている。
 だが、ヨタハチは実験的な車で約3000台しか生産されなかった。2000GTは映画『007は二度死ぬ』の劇中車に使われ、マニア垂涎の「ボンドカー」だったが、こちらは高価すぎて庶民には高嶺の花だった。
 こんな車を思い浮かべるのは、他社のエンジニアや辛辣なカージャーナリストたちから「トヨタの車はワクワクしない」と言われ続けてきたからである。
「いやあ、トヨタさんの車はそつなくできていて、たくさん売れていいですね。でも何かつまんないですよ。どうせ役員会の多数決で車が決まるんでしょう」
 それはまだ我慢できるのだが、こたえるのはライバル他社のエンジニアの言葉だ。これは少し後のことだが、他社のスポーツカー担当と飲んだ時に、「なかなかスポーツカーは盛り上がらないね」という話題になった。
 思わず多田は本音をぽろっと漏らしてしまった。

「お前の開発案はどうなってるんだ。ライバルに負けてるじゃないか」
「車好きはみんな、日産のシルビアとか昔のハチロクのような軽快で安い車が欲しいと言ってるね。高くてバカみたいに速いスポーツカーじゃなくてさ」
「そんなこと俺たちだってわかってるさ」
「そうだよ」
 という声が一斉に上がった。
「俺たちも手ごろなスポーツカーのアイデアを出した。それがことごとく撃沈するんだ」
 彼らの嘆きはこうだ。
 スポーツカー担当者が役員会で説明に立つ。だが、スポーツカーを分かっている役員はどこの社も少ない。聞かれるのは「ライバルはどこだ。ライバルよりどれだけ速いんだ」ということである。そこで、サーキットのラップタイムや加速タイムなどを挙げて、うちの車はライバルより何秒速い、とわかりやすく答えて、開発を始めたいと懇願する。ところが、そんなときに限って、ライバル車がモデルチェンジしてより速くなっているのだ。

トヨタはできない代表みたいな会社
 それを見た役員が激怒する。
「お前の開発案はどうなってるんだ。ライバルに負けてるじゃないか」
「いや、負けないように作ります」
 そのために、さらに大きなエンジンを搭載すべく規格を変えたりして、どんどんモンスター化する。そして、バカ高い車になっていって、売れない──というのである。
「本当は君の言うような車が作りたいんだ。だけどできない。トヨタになんか絶対できないよ、そんな車。トヨタはできない代表みたいな会社じゃないか」
 スポーツカーエンジニアは多くのメーカーで浮き上がった存在に見られている。飲んだときに出る彼らの言葉は悲鳴のように、多田の耳にいつまでも響いて残った。

 

「ホンモノのクルマ作りをしたことがない人が上にいる」…モノ言うエンジニアが絶望し、巨大メーカーを去ることに決めた“上層部への忖度”
4/6(木) 6:12配信 文春オンライン
「ワクワクしないクルマばかり」「そつがないけど何かつまんない」…自動車メーカーのエンジニアたちが心を折られた“忘れられないひと言”  から続く

 「絶対に売れない、儲からない」と言われながらもトヨタ自動車でスポーツカーを懸命に作り続けた男たちを描いたノンフィクション『どんがら』。エンジニアたちはどのように開発に取り組んでいたのか。彼らの栄光と苦悩に満ちた日々を一部抜粋してお届けする(全2回の2回目/ 前編 を読む)。
◆◆◆
スープラの量産第一号車が約40倍の価格で落札される
 デジタル表示の競り値はぐんぐん吊り上がり、広い会場の一角で多田は凝然と立ちすくんでいた。
 2019年1月、スープラの量産第一号車が米国のアリゾナ州で世界最大級の「バレットジャクソン」チャリティーオークションにかけられていた。発売前に米国トヨタが発案したのだが、競り値は上がり続けて、とうとう210万ドル(約2億3050万円)の落札価格がついた。本体価格が5万5250ドル(約600万円)だから、その約40倍ということになる。
 落札者はトヨタ車などを扱う全米有数のカーディーラーだったが、オークションの結果は1978年から北米に投入されてきたスープラが強い人気を保っていることを示していた。

半年分の予約枠がわずか2日で売り切れる騒ぎに
 多田は先輩の言葉を思い出した。「スープラは日本車じゃなくて、もう米国のものなんだ」。特に4代目にあたるスープラ80型は米国映画『ワイルド・スピード』に登場して人気を集めていた。2002年に生産を終了していたが、ハチロクを開発するころから、米国のディーラーたちは「いっそ5代目のスープラを復活させてくれ」と強く要望していたのだった。その声を意識して今度の90型は「バットマンカー」を思わせる、米国人好みの厳(いか)ついデザインを採用している。
 日本発売は令和がスタートした2019年5月のことである。テレビCMに登場した豊田章男が両手を広げ、「スープラ・イズ・バック!(スープラが戻ってきた)」と叫んでいた。
 ところが、多田の主張に対し、営業部門は2人乗りの趣味の車だからさほど売れないとみて、十分な台数を準備していなかった。営業部門は慎重で、膨大な過去のデータや市場調査結果を盾に、毎回販売計画を低く見積もる傾向にある。蓋を開けてみると、営業の予想を覆して予約が殺到した。半年分の予約枠がわずか2日で売り切れ、1週間ほどで予約を中断する騒ぎになった。

だが、大きな問題が発生した…
「ほら見ろ! けちった結果がこんな始末だ」
 と多田は怒ったが、高級スポーツカーは大衆車のように急な増産がきかないので、いつになったら乗れるのか、という客や販売店から届くクレームの矢面に立たされた。スープラ90はオーストリアのマグナ・シュタイヤーに委託生産し、ベルギーのトヨタで検査をして船便で送るから時間がかかるのである。
 最大の販路だった米国では1月、デトロイトで全世界に向けたスープラ発表会を開いたのだが、事情があって実際に発売したのは半年後である。たちまち購入希望者が販売店に押しかけた。肝心の在庫はほとんどなく、しばらくの間、プレミアがついて10万ドル近くで取引された。ちなみに、米国は販売方法が日本の予約方式と違って、ディーラーにある在庫車を売るというやり方なので、どうしても欲しいという客は割り増しを承知で乗っていくのだという。
 こうしたプレミア人気も追い風になって、スープラは北米を中心に順調に売れた。
 初年度は販売期間が年の後半ということもあり、全世界の販売台数は5770台(うち日本は880台)だったが、翌年の2020年は倍近い1万830台(日本2650台)を数え、2021年8月までの累計販売台数は2万4670台(日本4390台)に上った。日本だけを見ても、2019、2020年の2年間でライバルの日産フェアレディZ(890台)の3.5倍、GT−R(1440台)の2.5倍近くを販売した。
 さらにスープラは2019年11月、ドイツで最も権威のあるゴールデンステアリングホイール賞を、8年ぶりにフルモデルチェンジしたポルシェ911を抑えて受賞した。ポルシェ911はモデルチェンジのたびにこの賞を取ってきたため、下馬評を覆してスープラが授賞したニュースは、ドイツトヨタの面々までびっくりさせた。
 だが、授賞式の多田が「チーフエンジニア」と呼ばれることはなかった。

なぜ功労者が呼ばれることがなかったのか
「開発の区切りがついた」として、スープラ発表の少し前の1月1日付の異動で、チーフエンジニアから格下の主査になっていたからである。彼は2年前に定年の60歳を超えていた。当初は「今のままの立場で五年間働く」といった特例の雇用延長だったのだが、名古屋駅前の名古屋オフィスに転出するように机が用意された。開発の拠点である本社の技術本館を後にしたのだった。
 ただし、彼はその後もスープラの開発責任者であり続け、名古屋からスープラのマイナーチェンジをドイツに指示していた。
 不思議な責任者だった。
 しかも、多田の後任のチーフエンジニアは、それから1年以上も空席になったままだったから、少なからぬ技術者が「どうなってるんだ」と首をひねった。「社長や幹部がしっかりしていれば、もうCEは必要ないということなのか」という声もあった。
 古くは「車両担当主査」と呼ばれたチーフエンジニアは、トヨタの製品開発の柱であった。その企業文化の中で育った技術者たちが、一部門だけにせよ、チーフエンジニア不在の時代をいぶかしむのは当然のことだっただろう。
 そうしたトヨタの変化をじっと見つめる人々がいた。

そして一人の男がトヨタを去ることを決めた――
 ドイツの甲斐もそのひとりだった。彼は本社から「ミュンヘンオフィスを2019年中にたたんで帰国してこい」と指示を受けたのを機に、ドイツで転職活動を始め、その年の末にはトヨタに辞表を提出してしまった。「マグナ・シュタイヤー社のドイツ拠点に転職する」というのだ。
 彼の師匠だった主査の野田は国際電話を受けて「本当か!」と大声を上げ、「もう引き留めても無駄なのか……」と絶句した。同僚たちも仰天した。
 甲斐の妻は怒った。彼女は大学でのキャリアを手放し、ドイツでようやく生活の安定を実感しつつあるころだった。
「なんで辞めないといけないの? 日本に帰ればいいじゃない。辞める理由がわからない。家族の生活がかかっているのよ」
 まったくその通りなのだ。彼女と周囲のこんな言葉は理にかなっている。

トヨタでやりきってしまったという思い
「日本に帰ればトヨタで仕事が待っているし、妻はまた大学に再就職できるだろう。家もある。なぜそれらを放り投げてドイツに残らないといけないんだ。手取りも減る。家族にはすべてリスクでしかないだろう」
 だが、甲斐はトヨタでやりきってしまったという思いがある。ひとつはF1プロジェクトに携わること、もうひとつはZという組織でスポーツカーを企画し、開発することだった。その夢は叶えた。今のままで、BMWとのプロジェクトに注ぎ込んだエネルギーを再充電し、スープラを超える車を作ることはできない、と思った。
 トヨタに入社して20年。46歳だったから、65歳まで働けるとすれば、あと約20年ある。折り返し地点に立っていた。
 味方がいないわけではない。妻が反対したときに中学二年生だった長女は、「お父さんをひとりで残すわけにはいかないよ。家族で一緒にいよう」と言ってくれた。これでうまくいかなかったらただの間抜けだな、と思っていたときに、先輩にかけられた言葉が思い浮かんだ。

その言葉とは…
「今の会社に戻ってきても、お前は決して幸せにならないよ」
 自動車業界には電動化、自動化、コネクテッド、シェアリングの大波が押し寄せ、100年に一度の変革期を迎えている。創業家社長の章男が「勝つか負けるかではなく、生きるか死ぬかの闘いが始まった」と訴える危機意識のなかで、風変わりで物言うエンジニアが煙たがられるようになっている。少し前まで社内はパワハラまがいのこともあったが活気があり、伝説的な技術者がいた。その系譜に連なるひとりが多田だった。
「お前はどっち向いて仕事してんだ」
 と甲斐はよく多田から叱られたものだ。甲斐が会社の都合に合わせて丸く収めようと思ったり、安易にコストを削ろうと思ったりしていると、
「俺や会社を満足させようとしてるんだったら、それは大間違いだぞ。お客さんがどう思うかを考えろ」

トップに忖度するあまり生まれたよどんだ雰囲気
 そう言われてはっと我に返る真っ直ぐな感情が、甲斐には残っていた。そして、忖度から無縁な多田をチーフエンジニアから外し、後任不在ということも甲斐を落胆させた。
──あれが実績を上げた人に対する扱いなんだろうか。
 チーフエンジニアがいないトヨタなんてあり得ない。それでいい車ができるのか、とも甲斐は思った。
「本物の車作りをしたことがない人や、Zという組織がなぜ必要なのか理解していない人たちが上に立っているのではないか」という声は幹部やOBにもあった。いまのトヨタムラには、周囲がトップに忖度するあまり、チーフエンジニアやZチームが脚光を浴びることを嫌う雰囲気が漂っている、という厳しい指摘さえある。技術者にスターはいらない、という空気である。