ヘーゲルの精神現象学(金子武蔵著)
本書は長野県の「佐久哲学会」という小中学校の教師による哲学会に、国内のヘーゲルの「精神現象学」の訳出者として第一人者である著者が、ちょうど夏休みの時期(8月)に、本題に付いて講演を行った速記文章に手を加えて刊行されたもので、昭和28年、30年、31年計、6日間におよぶものだ。
(現代ではなかなか難しいことかもしれない)
この、ある地方の「哲学会」と著者の交流というのは特筆すべきことのように思う。
そして、ヘーゲルの解説書は何冊か読んだが、やはり、本書が一番良い印象を受けた、それは、単に「易しい」というわけではなく(私、今回で2度読んでいる)、しっかりと説明しようという、なにか「気持ち」が伝わってくる本であるからだと思う。
今回は、ヘーゲルの弁証法なるものが、おぼろげながら見えてきた。
例えば、善なるものも、悪なる要素に転ずることがあり、また。悪なるものも、善に転ずることがある、その繰り返しの中で、吟味され精査することにより、さらに優れた段階に進んでいくであろうという考え方で、なぜそうなるのかの前提のひとつは、キリスト教の思想をもとに、人間が神の祝福を受けているということによる。
ちょうど、モダニズムの考え方に符合した(失礼ながら)楽観的なところがあり、逆に、当時としては「人類」の発展に期待を抱かせる、素敵な考え方であったのだろう。
ヘーゲルは、今日まで続く哲学の思想史のなかで、その後のマルクスや、その対立としてのニーチェなどを生み出した原動力でもあり、そういう意味での役割は大きかったのだと思う。
(現代ではなかなか難しいことかもしれない)
この、ある地方の「哲学会」と著者の交流というのは特筆すべきことのように思う。
そして、ヘーゲルの解説書は何冊か読んだが、やはり、本書が一番良い印象を受けた、それは、単に「易しい」というわけではなく(私、今回で2度読んでいる)、しっかりと説明しようという、なにか「気持ち」が伝わってくる本であるからだと思う。
今回は、ヘーゲルの弁証法なるものが、おぼろげながら見えてきた。
例えば、善なるものも、悪なる要素に転ずることがあり、また。悪なるものも、善に転ずることがある、その繰り返しの中で、吟味され精査することにより、さらに優れた段階に進んでいくであろうという考え方で、なぜそうなるのかの前提のひとつは、キリスト教の思想をもとに、人間が神の祝福を受けているということによる。
ちょうど、モダニズムの考え方に符合した(失礼ながら)楽観的なところがあり、逆に、当時としては「人類」の発展に期待を抱かせる、素敵な考え方であったのだろう。
ヘーゲルは、今日まで続く哲学の思想史のなかで、その後のマルクスや、その対立としてのニーチェなどを生み出した原動力でもあり、そういう意味での役割は大きかったのだと思う。