110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

歴史的意識について(竹山道雄著)

 本書は1983年、講談社学術文庫として刊行された(ちなみに栞が白紙で厚いのだ)。

 本書を手にしたのは、著者が「ビルマの竪琴」の作者だったからで、文学者のエッセーの類だと思ったが、案に反してとても深い洞察の感じられる好著であった。
 ちょうど、今月号の「文芸春秋」に、新東京裁判という題目で、東京裁判第二次世界大戦に関する討論会の記録が出ていたので、本書の冒頭での、東京裁判の記録は偶然にしても、興味が符合したかたちとなった。

 さて、本書で一番関心をもったのが「人間は世界を幻のように見る-傾向的集合表現-」という章で、

 「客観的世界についての人間の認識とはどういうものなのだろうか」という問題提起の後に、
 人間はナマの世界に自分で直接ふれることがあまりないのではなかろうか。むしろ、世界についてのある映像の中に生きているのではないのだろうか。
 そして、その人間の世界に対する映像のもち方は、自分の直接の経験から生まれたものよりも、むしろおおむね他から注ぎこまれたものではないだろうか?「このように見よ」という教条のようなものがあって、人間はそれに合せて世界を見る。人間の対世界態度は他から与えられ、これが基本になって世界像がえがかれ、人間はその世界像にしたがって行動する。この際に理性はほとんど参与しない。
 そして、この後に、各事例を紹介しながら解説が進む。

 人間の思考が、ひどく理論的で高尚なものに見えても、それが実際の生活の中に入ると歪められて、倫理的には悪になってしまうことがある(本書でも、アウシュビッツユダヤ人排斥~ルターの聖書解釈~聖書自体に書かれたユダヤ人排斥という問題提起・・・因果関係の指摘がある)。
 そして、それが精緻な理論だったりすると、その事象のシンボル(「マルクス主義」という言葉自体)を持って端的に善悪を判断してしまう、いわゆる思考停止状態が発生する。
 そのような、危機に陥るのは、何故か知識人が多いのだよなぁ・・・ということを、本書には書いてあったりして、思わず笑ってしまった。
 そして、本書が警告を発するように、余りに抽象的な概念を先行させることに注意をはらって行かねばならないと思った。
 現在は、そういう意味では、「イデオロギー」の種子が潜在している状況のように思えるのだが・・・?