110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

イデオロギーとしての技術と科学(ユルゲン・ハーバオマス著)

 本書は平凡社ライブラリー2000年刊行のものを読んだ。

 本書でのハーバーマスの立場は、科学技術は政治力を超えて影響力を持っていくという内容に受け取れるのだが、どうも解説を読んでみると、そう短絡的な立場ではないらしい。
 しかし、1960年代の論文を集めた本書を読むと、その内容に共感するかどうかは別として、ある意味、本書に書かれている方向に世の中は動いてきたと思えるのだ。
 それは、物象化だとか人間中心主義だとか微妙に言葉や思想的な細部にわたっての差異はあるのだろうが、結論的にこの表題のように「技術と科学」がイデオロギーとして存在することになっているようだ。
 しかし。その技術なるものも少し変貌を遂げてきているようだ、かつては、製造業を象徴とするモノつくりに対する科学技術だったものが、最近は、なんとなく情報(データ)に対する科学技術になってきたようにも思う。
 そこには、確かに「情報」としての「価値」はあるのだろうが、なんとなく、「モノ」の持つ存在感とそれにともなう「価値」は無い(希薄な)ように思えてしまう。
 それは、付きつまるところ、自分の持っているお金は、単に、銀行のデータベースに記録された数字と化してしまったことに象徴されているのだろう。
 ハーバーマスは、マルクスを批判して、近代化社会では資本家が生産手段を労働者から取り上げたとするが、現在の観点から見ると、(比喩的に)生産手段を私に返されても、現在の複雑なシステムを個人で動かすことは不可能だということは直感的にも分かる。
 しかし、そこには、なんともいえない疎外感があることは事実で、私の如き前世紀の人間には「現金」という観念も薄れている現在に不安も覚えている(クレジットとは未来を担保にしているということですよね)。
 間接的に、私たちは、日本という国の借金の連帯保証人であり、既に一人当たり数百万円の金額はが担保になっているのだ。
 でも、それが見えないこと(隠されていること)で安心してしまうというのは、人間の刹那的なところかもしれない(少なくとも自分についてはそう思う)。
 随分脱線したが、いわゆる現在の科学技術至上主義(近代化)を擁護する、ハーバマスの立場は、肯定的にせよ、否定的にせよ、知っておくことは良いことだと思った。