110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

近代科学の誕生(H・バターフィールド著)

 本書は講談社学術文庫版で読む(現在では意外と入手は難しいかもしれない)。

 私にとって、本書は数奇な出会いである。
 もともと、本書は上下2分冊であったものを、まず上巻がバラで安く古本屋にあったので手に入れた。
 内容的には、小説の様に結末を読む必要が無いので、そのまま、下巻を探したが、なかなか見つからなかった。
 それが、少し前に、全く別の古本屋で発見したのだ(しかも下巻のみ)・・・実は、半分あきらめていたのだが。

 そして、下巻を読むにあたって、奇しくも、ベーコンの著作を読んだ後になったことも、偶然とはいえ面白い出会いであった。

 近代科学(原著のタイトルで1300-1800とある)の歴史的な考察である。
 ここでは、17世紀あたりが、ひとつの転換点であるように見受けられる。
 日本と言う国が、西洋の宗教や、風習ではなく、科学技術を取り込むことで、西洋化されたといわれた事象を考慮に入れれば、いわゆる、西洋化とは(雑な発言と言われるかもしれないが)科学技術を導入すること、とも言えるだろう。
 しかし、逆に、日本は西洋化されてはいないという、逆説を考えれば、その主要な要素としての科学技術は取り入れたが、その他の西洋の要素(宗教・文化など)を取り入れたわけではない。
 いわゆる、日本は、西洋化のある要素を突出して導入したした、化け物である・・・という考え方もあろう。

 しかし、そんなことを言っている間に、日本はアメリカ化してしまった・・・などという事は少し置いておこう。

 その西洋化が、科学技術の導入であり、その具体的な象徴が製造業と言う風に考えるならば、それを、現在に(とても許してもらえそうも無い方法・・・直感)当てはめるとどうなるのだろう。
 ひとつは、製造業への就業への偏見(3Kという言い方や、有効求人倍率など)、そして、工学系の大学生などの減少を考えると、日本は「脱科学技術化」している様にも思う。
 ということは、必然的に、新たな経済基盤を考えねばならない様にも思うが、どうだろうか?

 そして、その様な人類の将来、その進歩に関する考え方は、本書で触れられた、17世紀、18世紀というそれぞれの時代にも、発せられていたのだ。
 そういう観点で読むと、1949年に著された本書に、余り古さを感じなかったのだ。