ノーベル賞経済学者の大罪(ディアドラ・N・マクロスキー著)
本書は2002年筑摩書房刊行のもの、私は増補版2009年初版のちくま学術文庫版を読む。
ここで著者は、経済学者が犯している三つの罪を告発している。
それは、
1.「存在」証明という非科学的な研究が、化学や歴史学といった分野での本物の科学者が関心を寄せる「量的な大きさ」の計測という研究に取って代わっていること。
2.「How Big Is Big(どれだけ大きければ大きいといえるか?)」を決定しようとする際、いわゆる統計的有意性を経済的重要性と混同して、標本誤差に関する恣意的で見当はずれの基準に頼っていること。
3.経済を押しボタンとハンドルを使って制御可能な巨大な機械であると考えること。
いわゆる、現実の世界を離れて、なんらかの理想世界(彼岸)に行ってしまったということだろう?
もとより、経済活動自体が余りに複雑な要素に左右されるので、そもそも、計算可能な範囲でモデルを作れるのか(ラプラスの魔)という指摘を読んだこともあるが。
そして、本書の題名にある、ノーベル賞を受賞した経済学者のうち、クライン、サミュエルソン、ティンバーゲンの3名がこの源流だと批判するのだ(サミュエルソン氏について、先日ブログに上げたばかりなのに・・・こういう偶然もあるのですね)。
さて、そういう本書をどう見るかというと、まず、本書の内容的な批判については、私自身がそれらを検証できる知恵が無いので、その趣旨をそのまま信じるしかないのだが、直感的にも、経済学は現実性があるのかないのか判断しにくい学問だと思う。
次に、そういうもやもやした学問も、経済活動の一部として機能しているということだ。
衣食住が足りると、そのもやもやが経済を動かす要因になってくるのだろう。
ここで著者は、経済学者が犯している三つの罪を告発している。
それは、
1.「存在」証明という非科学的な研究が、化学や歴史学といった分野での本物の科学者が関心を寄せる「量的な大きさ」の計測という研究に取って代わっていること。
2.「How Big Is Big(どれだけ大きければ大きいといえるか?)」を決定しようとする際、いわゆる統計的有意性を経済的重要性と混同して、標本誤差に関する恣意的で見当はずれの基準に頼っていること。
3.経済を押しボタンとハンドルを使って制御可能な巨大な機械であると考えること。
いわゆる、現実の世界を離れて、なんらかの理想世界(彼岸)に行ってしまったということだろう?
もとより、経済活動自体が余りに複雑な要素に左右されるので、そもそも、計算可能な範囲でモデルを作れるのか(ラプラスの魔)という指摘を読んだこともあるが。
そして、本書の題名にある、ノーベル賞を受賞した経済学者のうち、クライン、サミュエルソン、ティンバーゲンの3名がこの源流だと批判するのだ(サミュエルソン氏について、先日ブログに上げたばかりなのに・・・こういう偶然もあるのですね)。
さて、そういう本書をどう見るかというと、まず、本書の内容的な批判については、私自身がそれらを検証できる知恵が無いので、その趣旨をそのまま信じるしかないのだが、直感的にも、経済学は現実性があるのかないのか判断しにくい学問だと思う。
次に、そういうもやもやした学問も、経済活動の一部として機能しているということだ。
衣食住が足りると、そのもやもやが経済を動かす要因になってくるのだろう。