告白の哲学(鬼頭英一著)
本書は公論社、鬼頭英一著作集の第八巻(最終巻)。
今の時代、実存哲学もないのかもしれないが、この著者のものは少し毛色が違うようだ、ハイデッガーやサルトルは、実存に対して死を対置させているのだが、鬼頭氏はその「死」そして「無」それ自体を追求した哲学者だったのではなかろうか?
それは、当初から難航が予想される問題意識だった。
そして、本著者はその問題の解決を実践的に行ってしまったようだ。
ここまで、この著作集の全八巻のうち四巻を読んできたのだが、後期の作品なればなるほどその思索の逡巡、空回りが目に付くようになる。
そこまで、踏み込む必要はあるのだろか、そして、神、宗教までその射程に入っていく時、それはハイデッガーも同じなのかもしれないが、それは哲学の領域なのだろうかと考え込んでしまう。
ここには、論理だけでは解決できない問題があるのだ。
そして、本書の巻末の編集者による、鬼頭英一という人物像について読んで見ると、その表面に仮面をかぶって生きてきた一人の人間(実存)が現れるのだ。
それは、善悪を併せ持った、やはり人間の姿なのだが、そこに、言い知れない感慨を覚えることになった。
さて、私は、(鬼頭氏の思索の)結末を先に読んでしまった形になってしまったが、最後に、とりおいたもう一冊を読んでもう一度感傷に浸ることにしよう。
今の時代、実存哲学もないのかもしれないが、この著者のものは少し毛色が違うようだ、ハイデッガーやサルトルは、実存に対して死を対置させているのだが、鬼頭氏はその「死」そして「無」それ自体を追求した哲学者だったのではなかろうか?
それは、当初から難航が予想される問題意識だった。
そして、本著者はその問題の解決を実践的に行ってしまったようだ。
ここまで、この著作集の全八巻のうち四巻を読んできたのだが、後期の作品なればなるほどその思索の逡巡、空回りが目に付くようになる。
そこまで、踏み込む必要はあるのだろか、そして、神、宗教までその射程に入っていく時、それはハイデッガーも同じなのかもしれないが、それは哲学の領域なのだろうかと考え込んでしまう。
ここには、論理だけでは解決できない問題があるのだ。
そして、本書の巻末の編集者による、鬼頭英一という人物像について読んで見ると、その表面に仮面をかぶって生きてきた一人の人間(実存)が現れるのだ。
それは、善悪を併せ持った、やはり人間の姿なのだが、そこに、言い知れない感慨を覚えることになった。
さて、私は、(鬼頭氏の思索の)結末を先に読んでしまった形になってしまったが、最後に、とりおいたもう一冊を読んでもう一度感傷に浸ることにしよう。