110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

十六の話(司馬遼太郎著)

 本書は1993年中央公論社刊行のもの、私は井筒俊彦氏との対談が附録として掲載された中公文庫版で読む。

 本著者の歴史小説は結構読んだと思うのだが、最近は、歴史に関連したエッセーや対談に興味を持つ、それらの文章の中にさりげなく撒かれた言葉から、歴史や書物への新たな興味が生まれたりする。
 ただ本作を手にしたのは、井筒俊彦という碩学との関係に興味を持ったところが大きい。
 形而上学の井筒と形而下の司馬という対談は、言葉尻をとらえると違和感を感じるが、それが不思議に成り立ってしまうところが大変面白い、それは、いい加減なのであろうか、それとも、究極なのであろうか、それは私の浅い知識の判断できるところではない。

 さて、本書の中では「訴えるべき相手がないまま」での、ある意味技術偏向の文明への批判へ興味を持った。
 また、「樹木と人」という講演記録に少し気になる記述があった。
 それは、当時話題になったチェルノブイリの事故について、以下の様に書かれていました。
 この事件において、ソ連はたしかに”外国”でした。事件がおこったとき世界じゅうの生物-人間がその代表ですが-に対して、じつはこんなことがおこった、状況はこうだ、と告げることが、新聞報道を見る限り遅れていました。やっと喋りだしたことといえば、自分のところの技術がまずかったわけではないとか、被害はたいしたことないんだとか、西側は反ソ的な宣伝にこれを使っているとか、きわめて第二義的な発表ばかりをしました。ですから、あの事件に関する限り、地球上で外国はソ連だけになってしまったのです。つまりソ連政府のこの事件についての対応方法が、非常に自国中心、あるいは秘密主義で、自国の人民にもあまり教えていない。そして外国の被害については謝ろうともしないし、実情を非常にフランクに発表するということをしない。ご迷惑をかけました、実はこういう事情です、こういう結果があったのです、被害はこれだけです、皆さんきっとご迷惑が及んでいると思います、という態度をとって、ソ連は初めて外国でなくなるのです。

 ここで「外国」というのは、いわゆる世界国家のようなものだと思います、人に迷惑をかけたのに自分の殻に篭ってしまい、自己肯定に終始するという、これは人間が生きていく上で必要な「因業」のようなものだと思うのですが、ちなみに、この「ソ連」と書かれたところを「日本」と書き換えるとと、寂しいことに気づくのでした。

 この事件において、日本はたしかに”外国”でした。事件がおこったとき世界じゅうの生物-人間がその代表ですが-に対して、じつはこんなことがおこった、状況はこうだ、と告げることが、新聞報道を見る限り遅れていました。やっと喋りだしたことといえば、自分のところの技術がまずかったわけではないとか、被害はたいしたことないんだとか、(西側は反ソ的な宣伝にこれを使っているとか・・・これは不適当ですね)きわめて第二義的な発表ばかりをしました。ですから、あの事件に関する限り、地球上で外国は日本だけになってしまったのです。つまり日本政府のこの事件についての対応方法が、非常に自国中心、あるいは秘密主義で、自国の人民にもあまり教えていない。そして外国の被害については謝ろうともしないし、実情を非常にフランクに発表するということをしない。ご迷惑をかけました、実はこういう事情です、こういう結果があったのです、被害はこれだけです、皆さんきっとご迷惑が及んでいると思います、という態度をとって、日本は初めて外国でなくなるのです。
 前半部分は良くあてはまってるようですが、後半は少し疑問ではありますが、あながち違うとも言えなさそうです。
 これは、いわゆる言葉遊びですが、何か感じるところがあったわけです。