110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

川越街道

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川越街道の三芳町にあった「川越街道」の解説板です(一部市制が変わった所を直しました)。

「川越街道は、長禄元年(1547)上杉持豊が川越城と千代田城(江戸城)を築いた際、古河公方に対する防御道とするため以前からあった古道をつなぎあわせたのが起源であるといわれ、現在のような道筋に整備されたのは江戸時代の寛永年間(1624~1643)とされる。現在、三芳町内の川越街道は中央分離帯によって上下二車線になっているが、江戸時代の道筋は現在の上り車線にあたる。
藤久保・竹間沢地区に残る杉や松の並木の起源は寛永期までさかのぼると思われ、延宝六年(1678)の尾張藩鷹場絵図には、既に中野(新座市)から藤久保を経て大井まで松とおぼしき並木が街道の両側に整然と描かれている。昭和四十年代頃までは、藤久保交差点の南側に松並木、北側に杉並木が続いていたが、現在では、わずかに残る藤久保交差点北側の松の古木に往時の面影がしのばれる。
なお、この川越街道の並木の景観は「三芳町みどりの景観八景」の一つに選定(平成四年九月二十二日)されている。
「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治時代以降のことで、江戸時代には「川越往還」「川越道中」「江戸街道」などと呼ばれるのが普通であった。川越街道には、大井宿(ふじみ野市)・大和田宿(新座市)・膝折宿(朝霞市)・白子宿(和光市)の四つの宿場が置かれ、板橋宿(板橋区)において中山道と合流し日本橋に通じていた。
「九里四里(栗より)うまい十三里半」という川越いもの特徴を誉めた言葉があるが、川越の大手前(現川越市役所前)から日本橋までの距離は十一里三十四町三十三間半(46.93Km)である。二里(8Km)ほど短いようであるが、生産地の三芳と集積地の川越の距離を合わせると十三里半となり、見事に距離も一致する。
平成五年三月 埼玉県三芳町