110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

生きて帰ってきた男(小熊英二著)

本書は岩波新書版で読む、2016年の新書大賞、小林秀雄賞受賞作だ、やはり、しっかりした本をきちんと評価する人々はいるのだね、さて、現在は大丈夫かな?

著者の父親の戦前から戦後についてのオーラルヒストリーで、著者が当時の社会現象などを補足している。

以前のブログにも書いたが小熊英二は、私の判断のよりどころだ、年齢は一つ下なんだけれども尊敬しているし、日本の学術界の良心だとも思っている、だから、読んで欲しいと思う。

さて、本書をだけで、戦争体験者を総括することはできないのだが、一つ思ったことは、彼らは生きることに必死だったということだ。

私たちは、後追いの知識で、高度経済成長だとか、バブルだとか、結果的に華やかな時代を見て、分析して、批判して、生産性がどうのこうのと言っているのだが、多分、戦争を生き抜いた人たちの内には、ただ素朴に生活をどうしようかということに専念した人が多かったのではなかろうか、その結果が現在の日本の歴史的土台になっているのではないか?

そんなことを考えてしまうのだ、下手な知識を抱え込みすぎたのが、今の日本の姿なのかもしれないね?

そして、気になったフレーズがある・・・戦後の日本国民に対しての補償についてだ。

つまり日本政府がとってきた原則は、以下のようなものだった。戦争被害は「国民がひとしく受忍」すべきもので、「補償」は行わない。強い要求があった場合には、「慰労」「見舞い」「医療援助」ならば行う。ただし政府の直接支出ではなく、民間団体や外郭団体によって設けられた基金の場合には、多少の柔軟性はありうる。ある新聞記者はこれを、「補償はしない。謝罪もしない。しかし慰めはする。それが国の立場だ」と要約している。

戦後の国民を見放した(見放さざるを得ない)国家の姿が見えれば、必然的に民間が強くなる以外に、急回復する要因がないのだ。

一部、政治家や官僚は、国家の政策を要因とするものもあるが(必ずしも間違いではないのだが)、現在のコロナ禍を見ている我々にとっては、幾ら金をつぎ込もうと成長しないものはしない(しかも、終戦直後は投入する金すらない)、これは、一度良く考えてみても良いことではなかろうか?

先だっての100兆円を越える予算を見ても実感が湧かない私はそんなことを考えてしまう。

そして、平和で一時は栄華を誇った戦後について、なんでも、政府がという考え方(TVで有識者がすぐに口にする「政府が、行政が、対応を・・・」に)疑問を持ってはどうだろうか、補償がないから「やる」とか「やらない」とかではなくて、自分の信念でやれば良いのではないか、みんな、他人事の世論に振り回されていることが、大きな問題なのだと思うし、日本と言う国はそれほど立派な国ではなくなったことは事実だろう。

仕方ない。