高齢化社会も極まってきた感じがする
不作動か 入居男性の手にナースコール 全従業員が「退職届」 伊勢崎の施設 元従業員が告白
2/8(月) 6:06配信 上毛新聞
全従業員が一斉に退職届を出した群馬県伊勢崎市の有料老人ホームで昨年8月、入居していた70代男性が呼吸停止の状態で発見された際、手にナースコールのボタンを握ったままだったことが7日までに分かった。男性はその後、搬送先の病院で亡くなった。対応した元従業員は上毛新聞の取材に「ナースコールが作動しなかった可能性がある。きちんと動けば助けられた命だったかもしれない」と打ち明けた。◎昨年8月 男性が呼吸停止 ナースコール 握ったままに
元従業員によると、入居男性は昨年8月下旬、吐しゃ物を喉につまらせ、呼吸が止まった状態で発見された。手にはナースコールのボタンを握っていた。すぐに救急車で搬送されたが亡くなった。
同施設では数年前からナースコールの不具合が頻発し、入居者からたびたびクレームがあったという。入居者の心拍などを測定するセンサーが各部屋に設置されていたが、元従業員は「センサーだとタイムラグがある。入居者の緊急時の訴えなどに対応できないため、会社に再三ナースコールの改善を要求していた」と話す。
男性の死亡後、再度整備が提案され、昨年末までに新たなナースコールが導入された。元従業員は「安全が十分に保てない環境が長く続いてしまい、入居者に申し訳なかった。人員も基準以下で、サービス継続は困難と判断した」と、一斉退職に至った背景を語った。◎元従業員「不具合頻発」/運営会社「把握はできた」
上毛新聞の取材に対し、施設運営会社(前橋市)の社長は「(新たなナースコール導入の)見積もりを取っていたのは元施設長。こちらは導入がだめとは言っていない」と反論し、「高齢者なので亡くなるケースはある。ナースコールよりも優秀な機器を入れているので、呼吸が止まればきちんと把握できた」としている。
群馬県の有料老人ホームの設置運営指導指針では、ナースコールの設置を義務付けていない。県は「施設によって要介護者の入居状況が異なる。それぞれの実情に応じて設置を検討することが望ましい」と説明している。
数年前に母親がふとしたことで入院したのだが、だらだらと時間が経過してしまい、足腰が弱くなったので、老健へリハビリのために転院した。
それが、当初は半年の予定がどんどん長引いて1年にもなろうとしたときに、思い切って自宅改修も視野に入れて、呼び戻した(といっても、この自宅も母親のものだが)。
それまで、ディサービスは利用していたのだが、こういう形態の施設ははじめてだったので戸惑ったのは事実だ。
その老健は、洗濯など一部の家事は家族がやるとか、頻繁に施設に行く機会があったので、今から考えると、一面面倒に思えるが、家や家族との関係を考えると、ほとんどおまかせの施設よりは結果的に良かったと思う。
その老健の対応には別に不満はなかったのだけれども、規定で、6ヶ月以上滞在するとリハビリの回数が減るという問題があった。
実際、母親は、そこでの生活にはある程度満足していたようだが、リハビリが減った上で、ここに居続けたら、この先自宅には戻れなくなるだろうという危機感が募ったのだ。
また、この施設もそうだったが、いま、ショートスティで行っているところ(老健)も、長期間利用している人がいるのだが、概ね、余り元気がないようにお見受けする。
介護士が身近にいるので、特に、問題や心配のない生活を続けられるのだろうけれども、その代わりに、自分で自発的に動いたり考えたりするような時間がなくなってしまうのだろうね。
そうすると、施設もしくは施設並みの介護ができる自宅にしか戻れなくなるのではないかと思うのだ。
でも、施設に長期間あずけるということは、自宅では施設並みの介護ができないということなのだろうから、方向性としては、施設(老人ホーム)に預けっぱなしの方へどんどん向かっていくだろうね。
ただし、施設に預けるのにもリスクがある。
本記事のようなのは極端だろうけれども、長い期間預けることになると、まず、当初は良かったはずの介護士の転職や、施設の経営方針の変化で、サービスが明らかに低下したりする可能性は否定できないからね。
例えば、2,3年経ったら見直して、もし嫌だったら、別の施設に移れるような経済的に余裕がある家ならば、まだしも、大抵は、一度選んだら、そこが終の棲家になってしまうことが多いのではないのかな。
そういう危惧があるので、私は、施設の利用はするけれども、基本は自宅介護ができるうちは続けたいと思っている、ディサービスもショートスティも嫌になったら新しいところに移れるからね。
そして、先々、どうしても施設に入ってもらわないといけないときに、あまり抵抗感がないように、事前練習的に、現在施設利用はしているつもりだ。
それが、正解なのかどうかはわからない。
ただし、90歳の割には元気だという、お世辞も含めての周りの評価は、本人(母親)の資質や努力もあろうが、あのとき施設に入れなかったことが、多少は良かったと思っている(面倒だと思うときも確かにあるけれどもね)。
まぁ、母親は多少良いとして、子供すらない私はどうなるのだろうね、まぁ、野垂れ死(死語かな)にでもなるしかないかな?
それでも、良いとは今の所思っている。
歳を取るということは難しいことだね。
私も若い時はこんなこと考えたことがなかったからね。
ただただ、高齢者をお荷物的に考えていたと思うけれども、いつかは自分がそうなるんだよね。