塩山駅から帰る-その3(2007年9月15,16日の歩き)
前回は<柳沢峠>まででした。
峠で少し休憩してから、出発します。
多少きつかった登りも終わり丹波山村へと下って行きます。
天気も回復しました。
特に、今回の区間は問題なく過ぎていきます、まだ、体力も残っていますしね。
峠で少し休憩してから、出発します。
多少きつかった登りも終わり丹波山村へと下って行きます。
天気も回復しました。
特に、今回の区間は問題なく過ぎていきます、まだ、体力も残っていますしね。
歩いていると、変なものを見付けました。
トンネル工事をしていてそこに多分セメントかなんかを運ぶためのものの様です。
後で見るとそれよりも、その背景の空と山の方が良いですね。
「あー、このトンネルがあれば距離が短くなるのになぁ」と、思ったりしながら歩いているのです。
トンネル工事をしていてそこに多分セメントかなんかを運ぶためのものの様です。
後で見るとそれよりも、その背景の空と山の方が良いですね。
「あー、このトンネルがあれば距離が短くなるのになぁ」と、思ったりしながら歩いているのです。
さらに先にいくと、道の横に案内版があり、その横に「黒川金山」と「おいらん渕」の解説がありました、
丁度、<柳沢峠>から、10.5kmのところだとわかりますね。
黒川金山の解説は以下の通りです。
丁度、<柳沢峠>から、10.5kmのところだとわかりますね。
黒川金山の解説は以下の通りです。
黒川金山
この柳沢川は多摩川の上流にあたり、現在、一帯は東京都の水道水源林となっていますが、ここより南西の地に黒川・鶏冠山(標高1,710メートル)があり、その東側、標高1,300メートル付近に黒川金山跡があります。
黒川金山の歴史は定かではありませんが、平安、鎌倉、室町時代にこの地方を治めた豪族である三枝氏、安田氏、武田氏とのかかわりが伝えられています。
坑道による採鉱は武田信虎の時代からとされ、信虎の子信玄の時代に最盛期を迎え、武田軍の軍資金の多くはこの黒川金山から産出されたといわれます。
しかし、信玄の子勝頼の時代には急速に採掘量が減り、徳川時代になって大久保長安らが経営に携わりましたが、十七世紀の中頃には閉山したものと思われます。
黒川金山には、「黒川千軒」といわれた鉱山街の名残である整地された多数の平坦面と坑道跡が残されており、一ノ瀬高橋地区には他にも竜喰谷金山、牛王院平金山などがあります。
なお、当時金山を経営管理していた集団は「金山衆」と呼ばれ、在地武士団を形成して塩山市の上萩原、下於曽、熊野などに居を構えていました。
「おいらん渕」伝説も書いてありますが、とても可哀想な話ですので、今回は省略します(どうも、この辺は心霊スポットらしいので・・・後で調べてわかりましたが)。この柳沢川は多摩川の上流にあたり、現在、一帯は東京都の水道水源林となっていますが、ここより南西の地に黒川・鶏冠山(標高1,710メートル)があり、その東側、標高1,300メートル付近に黒川金山跡があります。
黒川金山の歴史は定かではありませんが、平安、鎌倉、室町時代にこの地方を治めた豪族である三枝氏、安田氏、武田氏とのかかわりが伝えられています。
坑道による採鉱は武田信虎の時代からとされ、信虎の子信玄の時代に最盛期を迎え、武田軍の軍資金の多くはこの黒川金山から産出されたといわれます。
しかし、信玄の子勝頼の時代には急速に採掘量が減り、徳川時代になって大久保長安らが経営に携わりましたが、十七世紀の中頃には閉山したものと思われます。
黒川金山には、「黒川千軒」といわれた鉱山街の名残である整地された多数の平坦面と坑道跡が残されており、一ノ瀬高橋地区には他にも竜喰谷金山、牛王院平金山などがあります。
なお、当時金山を経営管理していた集団は「金山衆」と呼ばれ、在地武士団を形成して塩山市の上萩原、下於曽、熊野などに居を構えていました。