110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

現行憲法の解釈

 憲法九条が矢面になっているが、私が知っている自民党案ではその他の部分に嫌味があると私は思っている。
 実は、九条は本丸ではないのではなかろうか?
 私は2012年ごろの自民党案を想定しているのだが、これはどちらかというと、民主主義的な観点から作られた現行憲法を、為政者に都合に良い憲法に変えるというのが骨子のような気がする。
 すなわち国民の憲法から、憲法に従う国民という、大きな解釈の変更が伺えるのだ。
 まぁ、これは雑談として、本丸でないと先ほど書いた九条の論点で「交戦権」という言葉の定義を考えるという以下の記事の見方は新鮮なものがあった。
 憲法改正については、まだまだ議論の余地はありそうだね。

 ちなみに、コメントには数十年経っているのだから現状に合わせるというのが結構あるが、現状に合わせるとどうなるのかが良くわからない。
 もし、改悪になった場合に簡単に戻れるのかというところが気になる。
 昭和30年代生まれの私は、直接戦争経験者ではないのだが、戦争経験者の「もうやりたくない」という思想を尊重したい。
 もし憲法改正をするのなら、戦前から引き継いでしまったものを(少しでも)綺麗にして欲しい、それは、天皇制であったり、官僚制であったり、一部の政治家であったりする。

 まぁ、改憲勢力が多数派になれば、ここに反対票が単純に一票あるってことだけなんだけれどもね。

安倍改憲案は果たしてリアルなのか
5/12(日) 12:00配信 毎日新聞
 平成期に自衛隊は大きく変容した。大規模な災害対処は当然として、国際緊急援助活動、PKOなど海外派遣の即応態勢を整え、テロや海賊、原発事故といった新しい事態対処にも任務を広げてきた。30年で大きく変わった組織の内実はどうなのか。私は毎日新聞の「平成という時代第4部 伝える」という連載(3月28日朝刊)で、冨澤暉・元陸上幕僚長のトップとしての思いに踏み込んで記事を書いた。ただ、退官後も日本における軍事の有り様について論考を重ねている冨澤さんについては、書き足らないテーマがある。憲法改正問題である。安倍首相が改めて憲法改正に並々ならぬ意欲を示しているいま、冨澤さんの言葉を考えてみたい。【毎日新聞編集委員・滝野隆浩】
 ◇ ◇ ◇
 今回の取材にあたって、冨澤さんは、あらかじめ自分の考えを「平成30年間の日本の防衛(自衛隊)の変遷」という文書にまとめていた。「書き始めたらやめられなくてね。ひと晩で書き上げたよ」というA4用紙6ページ。平成元(1989)年のベルリンの壁崩壊、それに続く東西冷戦の終結を受けて、世界の潮流としての軍縮圧力にどう対応したか。そこから始まり、各次防衛大綱の「書きぶり」や、任務が拡大する割に増えない予算について防衛省内・自衛隊内部でどんな議論を進めたかなど。幹部の実名とともに生々しく記されてあった。それはまさに、「体験的平成自衛隊30年史」といってもいい内容である。
そして、結句は次のような文章だった。
 <日本はこの30年、不磨の憲法の下で何も考えず「去年のような今年と来年を夢見て」幸運にも生きてきた。そうではなく、特に安全保障問題は、世界に通用する国際法にのっとって明日や来年を考え判断し、実行する国に脱皮すべき時なのではないか。>
 これは「きちんと憲法問題に向き合え」というメッセージだと、私は受け止めている。
 新聞連載でも書いたことだが、冨澤さんは四半世紀前の、村山富市首相とのエピソードを、今回、私に明かした。それは、社会党が94年、自民党との連立を組むにあたり党の根本政策を大転換して「自衛隊は合憲」と宣言したあと、社会党の首相として初めて朝霞訓練場で観閲式に臨んだすぐあとの出来事。朝霞駐屯地陸上幕僚監部主催の昼食会を待つまでの控室で、2人だけで窓の外を見ながら村山首相は問わず語りにこう話したという。
 「今日のわしの言葉を一番喜んでいるのは、社会党の仲間たちなんじゃ」
 冨澤さんにとって、それは積年の鬱屈が氷解する言葉だった。創設当初から「違憲の存在」といわれ、隊員たちは「税金泥棒」という罵声に耐えてきた。その急先鋒(せんぽう)だった社会党に近い人たちが、実は本音では自衛隊を認めていたのだ、ということをトップ自らもらしたのだった。そう理解できた。「ああ、長い間の自衛隊に関する憲法問題もこれで終わった、と思いましたね」。そう話す冨澤さんの頭には、安倍晋三首相の自衛隊を明記する形の改憲提案に対する「違和感」がある。
 安倍首相は2017年、読売新聞のインタビューに答える形で自衛隊を明記した改憲案をぶち上げ、そのあと「自衛官が息子に『お父さん、憲法違反なの?』と尋ねられ、息子は目に涙を浮かべていた」などと提案の背景を説明してきた。首相が得意とする感情に訴えかけるメッセージである。だが、四半世紀も前に、最大の批判勢力だった社会党のトップから「本音」を聞かされた冨澤さんにしてみれば、「何を今さら」という受け止め方なのである。
 平成の30年、自衛隊は国際環境の激変に対応する形で、さまざまな実任務をこなし、とくに海外派遣では「戦時」や「戦地」の派遣もしてきた。リアルな存在になったのである。海外での実任務には当然、危険が伴うから法的なあいまいさやごまかしは許されない。だからこそ、感情論ではなく、正面切って議論することが憲法改正には必要だと、冨澤さんは訴えている。
 この数年来、冨澤さんと憲法改正について議論してきたが、ポイントは9条2項、「交戦権は、これを認めない」という部分だった。ふつうに読めば、わざわざ「交戦権」という言葉を取り出して「認めない」と明記してあるのだから、自衛隊という武力組織は戦ってはならない。
 ところが、防衛省の公式見解(同省ホームページ「交戦権」の項目参照)では、「(交戦権とは)相手国の領土の占領などの権能を含むもの」であり、「(それは)自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません」としている。つまり、「交戦権=他国の占領行為」で、そんなことはゆめゆめしないから、9条は矛盾しないという、まことに特異な解釈をしているのである。
 冨澤さんは「交戦権(right of belligerency)というのは国際関係法辞典にも載っていない言葉。あえて解釈すれば『交戦中の権利』とでもいえるが、それでも『交戦する権利』と明言する学者はいない」として、改正を主張する。私もそのとおりだと思う。
 細かな憲法の解釈などはどうでもいい、という向きもいるだろう。だが、私はこの部分こそが憲法9条問題の核心だと考える。軍というものの本質にかかわる話だからだ。武器を持って戦うのであるから、好むと好まざるとにかかわらず「殺す/殺される」という厳しい関係性の中に入る。同じ国民である自衛官にそれをさせるかどうかの話だから、「どうでもいい」という態度は許されないのである。
 前述の新聞記事の中で、冨澤さんが3年前、東大の学生の「軍事研究と平和」に関する自主勉強会に呼ばれたときの言葉を紹介した。「軍というものの持つ機能」について、軍事ということをそれまでほとんど考えたことのない学生に対して、自分の自衛隊人生に照らして述べたのだった。再掲したい。
 「私は人を殺したこともないし殺されもしなかった。私の一生は意味がなかったのかと考えるわけです。戦ったことのない軍人なんて何だと…………。だけど、私はまことに見事な自衛官人生だったと考えます。軍事というのは平和を支える論理なんです。われわれが死なないし戦わなかったからこそ、日本は平和だったんです。そのために機能したと」
 9条の「交戦権」という記述は、決して避けることのできない核心的テーマなのである。ここを回避した改正論議は意味がないと考える。
 最後に、「自衛隊」という名前の問題である。この30年、自衛隊が海外に派遣されるようになって、他国軍隊との交流が進んだが、自衛官の現役、OBによく聞くのは「自衛隊という名前、英訳はなんとかならないか」という声だ。冨澤さんも、そのことを気にしていて、本や論文でも何度も書いている。自衛隊の英訳は「Self Defense Force」。しかし、自衛(Self Defense)とは「正当防衛」と理解されることが多いので「正当防衛隊」とか「護身隊」などと受け取られるらしい。つまり、国家を防衛し、世界秩序の維持を目的とする意味よりも、「自分の身を守る部隊」として、嘲笑の対象となるという。だから、「せめて『self』だけは取ってもらえないか、と訴える。冨澤さんが昨年10月に書いた文章(日本国防協会ホームページに掲載)には、こうある。
 <職業人であるならば国内と同様に世界からも認めて欲しいというのは当然の要求だが、それ以上に、「外国人たちに認められない軍事力」は大目的である「平和外交の支えとしての役割」を果たせない、という点が問題なのである。/そのためには何より嗤(わら)われる「自衛隊」という名前は変えてほしいのである。憲法でその名前をこれからまた70年も固定されてはたまらない。今はその名が憲法にないことがむしろ救いと言える。>
 断っておくが、冨澤さんは、安倍内閣の安定性と、首相の外交手腕は大いに評価している。そのことはくり返し表明している。ただ、深くて重い議論になりそうな本質的論を避けて、ただ「自衛隊」という名前を憲法に明記すればいいという考え方には同意できないのである。80歳を超えても、現場に即して考え続けるリアリストの意見は傾聴に値すると、私は考える。