110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

コロナ禍について考える

コロナ禍について現在厳しい状況になっているのだが、そもそも、議論がものすごく曖昧になってしまったところがあるのではないかと思って再考してみる。

 

・コロナ禍は、天災なのか、人災なのか?

 新型コロナウィルスの感染拡大により、社会的な問題を引き起こしたのだが、感染症の拡大ということから考えると、発端は天災だと言えよう。

 しかし、これが長期化することで、経済、医療、生活など、様々な社会制度に関わってしまったことで切り分けが難しくなっている。

 コロナウィルスの存在は、自然なものであり、人為的に構成される社会(制度)よりも根底に近いものだから、感染抑止と経済活動の議論は、同じ、土俵に上げられないものだと、私は思っている(感染抑止がより根本的(重要)だという考え方)。

 

・新型コロナウィルスを国内に広めてしまった国と水際で止めた国は違うのか?

 これは、明らかに違う、一度、新型コロナウィルスを受け入れた国々は、今までのインフルエンザのように、新しい変異の発生と、その流行に備えねばならない。

 対応経験値が少ない段階では、新しいコロナウィルスの流行に伴って、ワクチン接種が普及するまでの間、最悪は、ロックダウンして経済活動を止めることが必要になるだろう。

 ただし、コロナ対策として、それに関連する産業や、医療関係は、新しい需用が生まれたということもできる。

 中長期的には、新型コロナウィルスは、世界中に蔓延する可能性が高いと思うが、現在、うまく抑止した国、その中でも大国としての中国は、この新しいコロナウィルスの感染拡大による経済抑制リスクが低いので、感染を受け入れた国々とは、相対的に経済成長にプラスとなる、すなわち、アフターコロナというのは国内にウィルスを受け入れた国々の話であり、中国など、水際で防いだ国は、アフターコロナという状況ではない。

 これらの国々では、感染がいつ国内に広がるかもしれないかという、リスクに戦々恐々とはするだろうが、国民は、アフターコロナの国々よりも、自由に生活できるだろう、その恩恵は、非常事態宣言を出されても受け入れられない人がいるという、現在の日本の状況と比べて明らかだろう。

 

日本国憲法でも制定されている自由を侵害するのは、本当に悪い事なのか?

 中国が将来的にも上手く対応できると書いたが、この裏には、国民の自由を制限することが容易にできるという背景がある。

 日本での緊急事態宣言に拘束力がないのも、こういう、個人の自由の制限に憲法が一定の保護を与えているからなのだが、現実的には、感染拡大が止まらなくなり、一縷の望みとして、ワクチン接種の普及に賭けることになったようだ。

 これについては、現在も、将来も、議論が続けられることだろう、今回の、日本でのコロナ禍の現状を考えると、経済的損失がという議論は跡を絶たないのだが、ここまで長引くと、飲食店の補償も必要なく、国民が一斉に1ヶ月、本当に自粛できたら、終わっていた可能性が高いということだ。

 これが、自由主義、資本主義、そして、なにより経済至上主義の、ジレンマだと思う。

 以前には、同様な趣旨を、囚人のジレンマという題目で書いたけれども、自由であることを選択したために、却って、ここ数年から、もしかすると数十年間は、コロナウィルス対策に(たぶんかなり高額な)費用や行動制限を割当てなければならなくなるだろう。

 経済活動を促進したために、却って不効率になったという事例は数多く、その典型は、公害問題だし、最近ではSDGsという形で提起されているが、今回は、これが国民の行動の自由と関連しているので根深い問題となる。