110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

カノッサの屈辱

河村たかし市長炎上に見る「何が何でも許さない」の怖さ(古市憲寿
9/2(木) 5:55配信 デイリー新潮
 河村たかし名古屋市長の謝罪が「カノッサの屈辱」だと話題になった。発端は、市長がオリンピック選手の金メダルをかじったこと。選手の所属するトヨタ自動車からも抗議があり、本社へ向かったが幹部との面会は叶わなかった。
 実際のカノッサの屈辱は1077年のイタリアで起こった事件。「教皇と皇帝のどっちが偉いんだ」という聖職叙任権争いの末、教皇が皇帝に破門を宣告。皇帝がカノッサ城に赴き、雪降る城門の前で3日間も裸足で赦しを請うた。結果、破門は解かれる。
 この故事が元となり、英語やドイツ語には「カノッサへ行く」という慣用句が存在し、不本意で強制的な懺悔や服従を意味する。
 確かにトヨタ教皇、市長を皇帝に見立てれば「カノッサの屈辱」という比喩も理解できる。だがカノッサの屈辱には別の解釈もある。皇帝がキリスト教の教義を上手に利用したというのだ。聖書の教え通りに、改悛した者には赦しが与えられなくてはならない。教会の権威のために、皇帝を赦さざるを得ないのだ。
 実際、皇帝の作戦は成功し、破門が解かれた後で反対勢力を殲滅した。ダンテ研究者の原基晶さんが監修する漫画『チェーザレ』(7巻)の中で、皇帝は「破門したくば何度でもするがよい! その都度奴の前で跪いてやるわっ」と言う始末だ。その意味で河村市長の謝罪は、千年近く前のカノッサの屈辱には遠く及ばない。
 同時に思うのは、何か事件が起こった時、批判の仕方や、収束の方法はこの千年で成熟したのかということだ。
 カノッサの屈辱で、教皇は教義を守り、改悛を受け入れた。しかし現代のSNSでは、何か問題を起こした人に対して、「何が何でも許さない」という態度の人を見かける。ともすれば、非常に危険な考え方だと思う。なぜなら、それは「問題を起こした人には何をしても許される」という思い込みに繋がりかねないからだ。実際、オリンピック開会式を巡る小山田圭吾さんの騒動の時には、殺害予告を含めた汚い言葉がネット上に溢れかえっていた。しかも被害の当事者が何を思っているかという視点は希薄だった。
「何が何でも許さない」という正義感の行き着く先は、究極的には殺人である。歴史が教えるとおり、正義が暴走した末に人が殺された事件は、枚挙に遑(いとま)がない。今でも仇討ち殺人はあるし、SNS上の誹謗中傷に耐えられずに自殺してしまった著名人もいる。
 もちろん「何が何でも許さない」と思うこと自体は自由だ。だけど、正義感が行き過ぎると、今度は自分自身が攻撃の対象になりかねない。当たり前だが、どんなに高い理想の実現のためだとしても、法律違反になるような行為は許されない。著名かどうかは関係がない。然るべき手続きを踏めば、ネットでの匿名発言であっても個人は特定できる。
 人気ドラマのタイトルのように、次に「許さない」と糾弾されるのは「あなたの番」かもしれない。
古市憲寿ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。
週刊新潮」2021年9月2日号 掲載

結構過激な発言をする人なので最近は多少遠ざけ気味だったが、本編は秀逸。

身近な議論としては「池袋暴走事故」だが、こんな記事がある。

 東京・池袋で11人が死傷した事故の裁判で2日、判決が言い渡されます。妻と娘を亡くした男性が取材に応じ、「被告には、どうしたら事故を防げるかともに考えてほしい」と話しました。
 松永拓也さん(35):「私は当然、遺族として、罪を償って頂きたい。前を向いて生きていく一つの区切りではあると思うので、公正な判決が下ることを願っている」
 おととし4月、池袋で車が暴走して男女9人が重軽傷を負い、松永さんの妻・真菜さん(当時31)と娘の莉子ちゃん(当時3)が死亡しました。
 過失運転致死傷罪で起訴された飯塚幸三被告(90)に対し、検察側は禁錮7年を求刑し、弁護側は「車に異常があった」として無罪を主張しています。
 松永さんは、ブログを通じて飯塚被告に「一審の判決が出たら、もう辞めにしませんか」と呼び掛けました。
 松永拓也さん:「2人の命を無駄にしたくない。唯一の救いって何かなって思った時に、これを教訓にして、実際に事故を防げることだと思う。本当に大事なことは、その視点を持ってほしいなと加害者にも」
 判決は今月2日午後2時に言い渡されます。

何気なく読むと、温情あふれる呼びかけに見えるのだが、これは、きちんと読むと「原告側が被告側に控訴するなと言っている」ことに変わりはない。

そして、飯塚被告に対して与えられた世間のバッシングについては全く触れていない、そして、交通事故の抑制へと議論をすり変えていること、これは、個人として裁判の被告になっている飯塚氏にはなんの関係もないことだし、そこまで言うなら、裁判そのものを取り下げなければおかしい。

古市氏の記事を読めば、こういう疑問を持ってもおかしくないはずだ。

こういうことを書けば、私もバッシングされるかもしれないが、飯塚被告は理性的に自分に与えられた権利(裁判権)を行使している、逆に、世論が、超法規的な判決を求めている。

これを、指摘する人もいるはずだが、少数派として、一般に広まらない状況だ。

 

ちなみに、世の中には、イスラエルパレスチナ問題とか、中東情勢(最近ではアフガニスタン)など、きちんとした認識・知識を持たないと、議論をするのが恐ろしい問題もある。