110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

<橘 玲>だれもが自分らしく生きられるリベラル社会とは「無理ゲー社会」のことである

だれもが自分らしく生きられるリベラル社会とは「無理ゲー社会」のことである
9/11(土) 11:16配信 プレジデントオンライン
現代では「すべてのひとが“自分らしく”生きられる社会の実現を目指す」というリベラルな社会がひとつの理想とされている。しかし、それは本当の理想的な社会なのだろうか。新著『無理ゲー社会』(小学館)を出した作家の橘玲氏は「リベラル化は『評判格差社会』を生み出し、生きづらさは増している。話題の映画『竜とそばかすの姫』は、その視点から読み解ける」という――。

■「無理ゲー社会」と『竜とそばかすの姫』の相関関係
 細田守監督のアニメ映画『竜とそばかすの姫』では、高知県の田舎町に住む女子高生すずが、インターネットの仮想世界で歌姫のベル(Belle)になり、そこで竜という野獣(Beast)と出会う。
 この設定からわかるように、物語はディズニーアニメで有名になった「美女と野獣」を下敷きにしている。
 私は新著『無理ゲー社会』(小学館新書)で、世界はますます「リベラル化」し、それが「評判格差社会」を生み出し、生きづらさが増していると論じた。
 ここではその視点から評判のアニメを読み解いてみたい(以下、ネタバレあり)。

コクトー版『美女と野獣』は野獣が王子として甦る
 「美女と野獣」はフランスの伝承で、それを1946年に詩人・小説家でもあるジャン・コクトーが映像化した。この作品では、主人公のベルは兄の友人にほのかな恋心を抱いているが、破産しかけた父を見捨てることができず求婚を拒んでいる。
 ベルは父の身代わりとなって野獣の城で暮らすことになるが、父が病に倒れたことを知り、1週間の約束で実家に戻る。ベルから話を聞いた兄と友人は、野獣を殺して宝物を手に入れる計画を立て城に押し入る。
 ベルは魔法を使って城に戻るが、野獣は傷心のあまり息絶え絶えで、ベルの腕のなかで死んでしまう。だがそのとき、宝物庫に押し入った兄の友人が石像の放った矢に撃たれて野獣に変身し、同時に野獣が王子として甦る。
 その美しい王子は、ベルが思いを寄せていた兄の友人と瓜二つだった。ベルは王子に、「あなたのことをずっと愛していた」と告げる……という物語だ。
 ここからわかるように、コクトー版の『美女と野獣』は幻想的なゴシック・ロマンスで、野獣は王子の姿に戻ったことでベルの愛を得る。

■ディズニー版・実写版は「ありのままの姿」で愛される
 これに対して、同じ伝承をディズニーがアニメ化した1991年版と、エマ・ワトソン主演で実写化した2017年版では、傲慢な王子が一夜の宿を求めた醜い老婆(魔女)を邪険に扱ったことで野獣に変えられる。
 魔女は王子に一輪の薔薇を渡し、最後の花びらが落ちるまでに真実の愛を見つけなければ、永遠に獣として生きることになると告げた。
 この新しい設定によって、野獣は「ありのままの姿」でベルから愛されなくてはならなくなった。ベルもまたたんに美しいだけでなく、田舎町では本が好きな変わり者と見なされ、「自分らしく」生きられる場所がどこかにあるはずだと夢見ている。
 城で暮らすようになった最初は野獣を嫌っていたベルだが、オオカミに襲われたとき生命を救われたことでその純真なこころに触れ、二人だけの舞踏会で美しく踊るまでになる。
 外見(虚飾)ではなく内面(真実)こそが大事で、誰もが「いまのままの自分」で愛し、愛されるべきなのだ。
 私は「リベラル」を政治イデオロギーではなく、「すべてのひとが“自分らしく”生きられる社会の実現を目指すこと」と定義しているが、ディズニー版はこの価値観を取り入れたことで世界中で大ヒットしたのだろう(実写版では、舞踏会で黒人の女性歌手や踊り手が登場するなど、「多様性」が強く意識されている)。
 野獣はその醜い姿のままベルの愛を勝ち得たことで、王子の姿に戻り世界を変えるのだ。
 これに対して『竜とそばかすの姫』では、野獣(竜)だけでなくベルも仮想空間〈U〉のアバター(As)でしかない。そして物語のクライマックスで、野獣ではなくベルが、ありのままの姿(そばかすの女子高生)をひとびとに晒すことで「世界」を変える。
 このようにして細田作品では、「美女と野獣」がリベラルな方向にさらにもう一段階押し進められている。ハリウッドに見られるように海外の映画界はますますリベラル化しているので、この物語も高く評価されるのではないだろうか。

■世界50億人が利用する仮想空間は「もうひとつの現実」
 『竜とそばかすの姫』で興味深いのは、世界50億人が利用している〈U〉という仮想空間だ。
 〈U〉はVoicesという5人の賢者によって創造された究極の仮想世界で、イヤホンや腕時計、眼鏡などの専用デバイスから生体情報を読み取り、最適な分身(As)が自動生成される。
 そのためアバターは、本人の現実世界の一部を反映している。歌が好きだった母を目の前で亡くしてから、すずは歌うことができなくなるが、仮想空間では歌姫として「再生」されるのだ。
 映画の冒頭で、ひとびとを仮想空間へと誘うプロモーションが流される。
 「〈U〉はもうひとつの現実。Asはもうひとりのあなた。ここにはすべてがあります」
「現実はやり直せない。でも〈U〉ならやり直せる。さあ、もうひとりのあなたを生きよう。さあ、新しい人生を始めよう。さあ、世界を変えよう――」
 リベラル化した社会では、人種、民族、宗教、性別、性的志向などの「集団の属性」ではなく、一人ひとりを個別に(ありのままの姿で)評価することが求められる。
 これにSNSのような新しいテクノロジーが加わると個人ごとに評判が可視化され、ごく一部の者が途方もない評判を獲得することになる。
 これがロングテール(ベキ分布)で、Twitterでは、どこまでも延びるテール(尾)の端に、オバマ元大統領やジャスティン・ビーバーケイティ・ペリー、リアーナのように1億人を超えるフォロワーをもつセレブリティがいる一方で、数十人から数百人のフォロワーしかいない大多数がショートヘッドを形成している。
 平和な時代が続くと資産もロングテールの分布になり、これが「経済格差」と呼ばれるが、評判はお金よりもさらにベキ分布になりやすく、「評判格差」はさらに苛烈なものになる。
 なぜなら、お金は(徴税のような国家の“暴力”で)再分配できても、評判を再分配することはできないから。
 50億人が利用する〈U〉で圧倒的な人気があった歌姫のペギースーは、ベルにその座を奪われたことで嫉妬するが、それ以外にいるはずの膨大な数の歌い手は話題にすらならない。
 ネットワークが無限大に拡がっていく仮想空間では、ロングテールの端の位置を占めることはきわめて難しい(というより、ほとんど不可能だ)。

■誰もが「自分らしく」生きられる世界を作る方法
 もちろん「リアル」な世界でも、すずや級友たちは、田舎の高校の狭い世界のなかで意中の相手の関心を得ようと悩み、奮闘する。
 それが多くの場合、失恋という結果に終わるとしても、50億人のなかで評判を獲得しなければならない仮想空間の「ゲーム」よりずっと攻略可能性が高いだろう。
 評判がベキ分布する以上、リアルな人生が生きづらいとしても、仮想空間で「もうひとりの自分」になって「新しい人生」を始めることはさらに困難になる。
 youtuberが注目されるのは典型的なサバイバルバイアスで、成功した少数の者(ロングテール)しか見ていないからだ。その背後には、ほとんど再生されない動画をアップしている数えきれないほどの「無名のひとびと」がいる。
 ゲームデザインの世界では、「競争」ではなく「協働」によって、ゲーマーたちが力を合わせて目的(よりより世界をつくる、など)を達成するものが試みられているようだ。
 それを拡張して、「壊れた現実世界をゲームのようにつくり変えよう」という主張もある(ジェイン・マクゴニガル『幸せな未来は「ゲーム」が創る』早川書房)。いずれも興味深い試みだと思うが、現在に至るまでこうした実験が大きな成功を収めているようには思えない。
 スーパースター(ロングテールの端)に惹きつけられ、それを目指そうとするのは「ヒトの本性」なので、容易に変えることはできないのだろう。
 だとしたら、どうすればいいのか。映画を観ながら思ったのは、一人ひとりの〈U〉があったらどうなるだろうということだ。
 『竜とそばかすの姫』で、アバターのベルが竜に出会って物語が展開するのは、それがすずのための仮想空間だからだ。
 同様に、すべてのユーザーに、それぞれが主人公となって活躍する物語が用意されていたとしたら、評判格差を気にせず、誰もが「ありのままの自分」でヒーロー/ヒロインになれるだろう。
 テクノロジーの指数関数的な進歩を考えれば、いずれクラウド上に80億の仮想空間がつくられてもおかしくはない。
 そのときこそ、ひとびとは「もうひとつの現実」で新しい人生を始め、ありのままの姿で「自分らしく」生きられる「自分だけの世界」を創造するようになるのではないだろうか。
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橘 玲(たちばな・あきら)
作家
2002年、小説『マネーロンダリング』でデビュー。2005年発表の『永遠の旅行者』が山本周五郎賞の候補に。他に『お金持ちになる黄金の羽根の拾い方』『言ってはいけない』『上級国民/下級国民』などベストセラー多数。
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橘氏は、自分で自分のための仮想空間を作れる社会を想定したが、古い映画「マトリクス」の様に、それぞれが自分が中心の社会を生きていると思わせる、国家や社会もあるのではないか?

その方が権力を元に管理するのは楽だ。