110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

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「差別の科学」として忌み嫌われた「現代の進化論」が、唯一残された「希望」へと変わった【橘玲の日々刻々】
11/5(木) 21:01配信 ダイヤモンド・ザイ
 4年間のトランプ政権下で、リベラルな知識人のあいだに「このままではアメリカ社会は分裂し、崩壊と破滅が待っているだけだ」との悲観論が広がった。こうした絶望は、新型コロナで露呈された経済格差や人種問題、今回の大統領選をめぐる混乱によってさらに深まっている。
 そんななか、ニコラス・クリスタキスの『ブループリント 「よい未来」を築くための進化論と人類史』(News Picks)は、「私たち一人ひとりが自分の内部に「善き社会をつくりあげるための進化的青写真(ブループリント)を持っている」とのポジティブなメッセージを送る。原題は“BLUEPRINT : The Evolution Origins of a Good Society(青写真 善き社会の進化的起源)”。
 クリスタキスは『つながり 社会的ネットワークの驚くべき力』(講談社)などの著作で知られるネットワーク理論の第一人者で、新型コロナの感染拡大ではSNSでの積極的な発言が注目された医学者でもある。『ブループリント』は、進化社会学という新たな学問領域の格好の道案内にもなっている。

●「共同体のなかで生存・生殖する能力」こそが「遺伝子に暗号化されている普遍的特性」
 クリスタキスは『ブループリント』で、ヒトの本性の暗い側面ばかりに注目する風潮に警鐘を鳴らし、それは「標高1万フィート(約3000メートル)の高台に立って2つの丘を調査している」ようなものだという。このとき、一方の丘は高さ約300フィート(約90メートル)、もう一方の丘は高さ約900フィート(約270メートル)だとしたら、3倍ものちがいはものすごく大きなものに思えるだろう。しかし、この2つの丘の高さのちがいにばかり気をとられていると、どちらも標高3000メートルの高台にあることを見逃してしまう。この高台こそがブループリント、すなわち「遺伝子に暗号化されている普遍的特性」だ。
 クリスタキスは、徹底的に社会的な動物として進化したヒトの本性を「社会性一式(ソーシャルスイート)」としてまとめている。
1 個人のアイデンティティを持つ、またそれを認識する能力
2 パートナーや子供への愛情
3 交友
4 社会的ネットワーク
5 協力
6 自分が属する集団への行為(すなわち内集団バイアス)
7 ゆるやかな階級制(すなわち相対的な平等主義)
8 社会的な学習と指導
 ヒトは熱帯から極寒の地まで地球上のあらゆる場所に移住し、独自の文化をつくりあげてきた。それにともなって(肌の色のような)異なる外見や異なる病気への耐性、そしておそらくは異なる認知的・性格的な特徴を進化(遺伝と文化の共進化)させてきたが、それにもかかわらず、どのような環境でも変化しない共通の要素がひとつだけある。それは「他人の存在」だ。
 クリスタキスは、この向社会性(共同体のなかで生存・生殖する能力)こそが「標高3000メートルの高台」であり、私たちを根底で規定する「青写真」だという。そのことが難破事故で孤島に漂着した船員、宗教集団や1960年代のヒッピー・コミューンからネットワーク上に構築された「架空の社会」にいたるまで、あるいはゾウ、チンパンジー、イルカなどの社会も含め、遺伝学、生物(動物)学、人類学、社会学などの該博な知識を縦横無尽に駆使して描かれていく。
 その魅力的な叙述は実際に著書を読んでいただくとして、結論のみを簡単にまとめるなら、向社会性は「愛情」「友情」「互恵性」によってつくられる。
 このうち「愛情」は、一夫一妻制の哺乳類だけでなく一部の鳥など、子どもを守り育て、配偶者と強い絆をつくらなければ「利己的な遺伝子」を将来に受け渡せない種に広く見られる特徴だ。こうした種で愛情がどのように進化したのかは、いまでは脳内の神経伝達物質オキシトシンの作用として解明されつつある。
 「互恵性」は社会的な生き物の特徴で、血吸いコウモリが空腹のときに血を分け与えてくれた(血のつながらない)仲間を見分けてお返しをするように、過酷な環境のなかで生き延びる戦略として進化した。これについては社会学で多くの研究があり、「相手が協力したら自分も協力し、相手が裏切ったら自分も裏切る」しっぺ返し戦略が有名だ。
 もっとも興味深いのは「友情」で、“無二の親友”は血縁者ではなく、それにもかかわらず打算を超えた深い交友をするのだから、「愛情」でも「互恵」でも説明できない。
 だが「友情(らしきもの)」は、チンパンジーのような近縁種だけでなく、ゾウやイルカでも見られるという。これは、知能の高い社会的動物では共同体内の利害が複雑になるため、家族関係や互恵的関係だけではじゅうぶんな安全保障を確保できず、ある特定の同性の個体と「特別な関係」を持つことが生存・生殖に有利になったからだろう。
 ヤクザの世界では義兄弟の絆は「血よりも濃い」とされるし、これは中国の「朋友」も同じだ。友情が文化を超えて普遍的に観察される「ヒューマン・ユニヴァーサル」であることは、社会的な動物であるヒトが「愛情空間」のまわりに「友情空間(俺たち)」をつくることで生き延びてきたことを示している。
 問題は、「俺たち」は必然的に「奴ら」とセットになることだ(「奴ら」がいなければ「俺たち」もなくなる)。これが「内集団バイアス」で、現代社会にさまざまな軋轢をもたらしている。
 だがクリスタキスは、こうした敵対感情は制御不可能なものではなく、徐々に「協力」の輪を広げていくことができるはずだと述べる。「私たちは本来、「善き社会」をつくることができるよう進化してきた」というのだ。

●必要とされているのは「還元主義と全体論の両方を受け入れる」こと
 ダーウィンの進化論は、DNAの二重らせんの発見によって大きく発展し、いまや生命だけでなくこころをも理解する強力な科学になっている。進化生物学、進化心理学、行動遺伝学、脳科学などの「現代の進化論」は、これまで哲学や心理学・社会学のような人文・社会科学によって扱われてきた領域を急速に浸食している(拙著『読まなくてもいい本の読書案内』ちくま文庫)。
 しかしそれにもかかわらず、いまだに生物学と人間行動を統合することには強い抵抗がある。クリスタキスは、「そこには4つの思想体系がからんでいる」という。それが「実証主義」「還元主義」「本質主義」「決定論」だ。
 実証主義は「科学的研究を通じてしか真実は知りえず、そのためには立証可能で再現可能なかたちで論理と数学を自然界に適応しなければならない」という主張で、社会科学はずっと「実証主義の要求を満たしていない」すなわち「科学ではない(あるいは科学として半人前)」との批判に苦しめられてきた。
 これは「現代の進化論」も同じで、ヒトの社会的な本性などを議論する際に「課せられるハードルが高くなりすぎる」とクリスタキスはいう。進化を物理学のように論じることはいまはまだ困難だが、だからといって「非科学的」と一蹴してしまうのでは、そもそも実証的な議論すらできなくなる。
 しかしそれより問題なのは、人文科学(哲学)や社会科学(心理学)の側に、実証主義をまるごと拒絶する根強い風潮があることだ。それが、「人間の内的状態は科学的に調べられるものではなく、直感や解釈、ことによっては宗教も含めた、科学ではない手法で理解しなければならない」という態度だ。その場合は必ず、20世紀初頭の優生学運動や、人体実験の野蛮な歴史が引き合いに出される。
 クリスタキスは、こうした批判には正当なものがあると認めながらも、だからといって「世界を知るのに科学がまったく役に立たないなどということはない」という。「魂」についてはともかく、いまでは感情・欲望や思考だけでなく、道徳や美すらも進化的起源とともに語られるようになり、脳科学や行動遺伝学などさまざまな技法によって探求されている。
 もちろんそうした「科学の実践」には限界があるだろうが、「まったく観察できないよりも、少しでも観察できたほうがましだ」。「現代の進化論」に対する批判は、おうおうにして「ガリレオは初歩的な望遠鏡ではなく、最初から電波望遠鏡を使うべきだった」というような難癖にちかいものになる。
 還元主義とは「複雑な現象や高度な現象を、その部分部分に還元すること」で、脳の仕組みや人間社会のような複雑なものには適用できないとされる。単純なものから複雑なシステムが生まれるには「創発」という過程が必要だが、全体を部分の総和ととらえる還元主義はそのことを無視しているというのだ。
 物理学者フィリップ・アンダーソンは、「あらゆるものを単純な基本法則に還元することができたとしても、それらの法則を起点にして宇宙を再構成できるわけではない」という。「系が軸に沿って拡大すると――つまり物理的なものが一つにまとまると化学的なものになり、生物学的なものが一つにまとまると社会学的なものになるように――その系は新しい創発的な特性を獲得する」のだ。
 ネットワーク論の権威であるクリスタキスは、もちろんこのことをよく理解している。だがそれでも、全体論のみを重視して還元主義を否定することは、科学として生産的ではないという。「集合的な現象に進化的な基盤があることを受け入れれば――たとえそれが還元主義的な試みであろうとも――協力や社会的ネットワークのような創発的な資質がいかにして生じうるのかが見えてくる」からだ。
 その意味で必要とされているのは、「還元主義と全体論の両方を受け入れる」ことだ。社会の遺伝的な基盤(ブループリント)に注目するのは、ただの還元主義ではない。それは、「社会生活についての真に全体的な理解を得るための土台」をつくる試みなのだ。

●なぜ「遺伝決定論」だけが問題にされるのか
 「現代の進化論」は本質主義だと批判されてもいる。本質主義とは、「物質世界の事物は(人間も社会も含めて)それぞれ一連の基本的な特性を持ち、その特性が、それをその事物たらしめているとする考え方」のことだ。
 本質主義が忌避されるのは、ヒトの本性や人間社会に「生物学的な本質」があるとして、文化の役割を軽視しているように感じられるからだろう。進化心理学は人類学者から、「人間の生活様式の信じがたいほどの多様さを平然と無視している」ときびしく批判されてきた。
 だが「現代の進化論」は、いまでは「遺伝と文化の共進化」として文化の要素を積極的に取り入れるようになっている。その代表的なものが「自己家畜化」で、ヒトはイヌやウマ、ヒツジを家畜化するのと同様に、自分で自分を「家畜化」してきたとされる。
[参考記事]●「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆された
 クリスタキスは、「こと社会にかんするかぎり、本質主義的な現実を受け入れつつも、社会生活を彩るきわめて多様なものがたくさん社会性一式を取り巻いていて、しかもそれが社会生活を円滑にしてもいるのだと認めることは可能だ」と述べる。ヒトが生物学的な「本質」に規定されている部分はたしかにあるだろうが、だからといって二者択一で文化の要素がすべて否定されるわけではなく、両者の相互関係にこそ理論の新しい地平が開かれているのだ。
 決定論は、「どんな系においても現在の状態はその前の状態によって完全に決定されるとする考え方」で、ラプラスの悪魔(ある時点において作用しているすべての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力をもてば、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知り得る)とも呼ばれる。「現代の進化論」ではこれは、「社会は人間の遺伝子によって有意に決定されうる」という遺伝決定論になる。
 こうした批判に対してクリスタキスは、「決定論」はそもそも中立的な概念であり、「環境決定論」や「文化決定論」もあり得るのに、なぜ「遺伝決定論」だけが問題にされるのかと問う。「ある特定の人間行動の流れを生物学が――完全に支配しないまでも――誘導することはあり得る」が、これは環境や文化も同じだ。
 奴隷制や異端審問、民族浄化(エスニッククレンジング)は、遺伝的というより文化的・社会的な悲劇だ。それにもかかわらずなぜ、「社会的決定因のほうが遺伝的決定因より――道徳的にであれ科学的にであれ――好ましいとみなされなくてはならないのだろう? 」
 差別を否定すれば差別がなくなるわけではない。優生学や人種差別を持ち出して「遺伝決定論」を一方的に否定することは、別の「決定論」によるグロテスクな未来を招き寄せかねない。
 「人間行動に対する遺伝的な説明はとんでもなく時代遅れで、社会的な説明こそが進歩的」だとの思い込みは、「過剰矯正」に結びつく。「ヨシフ・スターリン毛沢東ポル・ポトといった指導者の発起のもとに推進された社会工学的な試みは、無数の人民を殺したが、たいてい彼らを突き動かしていたのは、遺伝的にコードされた人間行動と社会秩序の基本的で普遍的な側面を、単純に一掃できるという誤った信念だった」とクリスタキスは指摘する。
 遺伝決定論優生学を生み出した「悪」だとしても、それを全否定する文化決定論や環境決定論が「善」だという保証はどこにもない。「科学的現実をしっかりと認めることこそが、道徳的に好ましくない結果を避けるための最善の道」なのだ。

●道徳的価値について、日常的観察や科学(進化論や遺伝学、脳科学)から多くを学ぶことができる
 科学が倫理や道徳の領域に侵食してくることを防ぐ最後の壁が、哲学者ジョージ・エドワード・ムーアが唱えた「自然主義的誤謬」だ。これは「である/べきである問題」として知られ、「“ある”ことが自然だからといって、善い(そうすべき)とはかぎらない」という説得力のある主張をする。
 以下はクリスタキスの立論から離れ、あくまでも私の理解だが、ヒトが相手を外見で差別するよう進化の過程で「設計」されている可能性は、残念ながらきわめて高い。左右対照な異性を好み、非対象の相手を嫌悪する性向は、哺乳類だけではなく昆虫ですら観察されている。進化生物学ではこれは、外見の非対称性が感染症の徴候になっていて、それを避けることが生存や生殖に有利だったからだと説明される。
 新型コロナにおいても、感染リスクの高い職業に従事するひとたち(医療関係者など)への差別が問題になったが、これが「行動免疫」だ。ウイルスや細菌が体内に侵入してから対処するのが生理的な免疫システムだが、それだけで完全に病気が防げるわけではない。病原体に脅かされている生き物が、感染源を避けるような「行動上の免疫システム」を備えるようになったのは「進化の必然」でもある。
 このとき、「ヒトは進化のなかで行動免疫システムを発達させてきた」という“ある(事実)”の主張から、「感染リスクのあるひとを避けるのは当然だ」という“べき(価値)”の結論を導くのが自然主義的誤謬だ。この例から明らかなように、このロジックを使うと科学によって差別を正当化することが可能になってしまう。
 しかしその一方で、「べき」から「ある」を導く別種の誤謬もよく見かける。「男と女には生殖器官以外なんのちがいもあってはならない」という“べき(価値)”論から、生物学的な性差についての研究をすべて「差別」として否定して、架空の“ある(事実)”の世界をつくるのがその典型だ(拙著『女と男 なぜわかりあえないのか』文春新書)
 いまも大きな影響力をもつ科学哲学者カール・ポパーは、「科学」と「非科学」を分ける基準は「反証可能性」だとした。これは「ある言明が観察や実験の結果によって否定あるいは反駁される可能性をもつこと」で、科学の世界では反証不可能な主張は相手にされない。ところがムーアはこれを逆手にとって、そもそも道徳的判断は世界を叙述するものではなく、規定するものだから、原理的に反証は不可能だと論じる。道徳は本質的に「非科学」的で、「科学」では理解できないのだ。
 この問題については、心の哲学を専門とする哲学者パトリシア・S・チャーチランドが、『脳がつくる倫理 科学と哲学から道徳の起源にせまる』(化学同人)で論じている。こちらの議論の方がわかりやすいので、かんたんに紹介しよう。
 チャーチランドはまず、ムーアの自然主義的誤謬を、「“よい”は非自然的な性質であって、科学では研究できない」と定義する。これはたしかに一理あるが、この定義があらゆる“よい”に当てはまる普遍的なものだとすると、次のような矛盾が生じる。
 ヒトの生物学的な指標と健康の価値について考えてみよう。このとき、「血圧が低い」は数値化できる“ある(事実)”の議論だ。これに対して健康というのは、非自然的な性質(分析不可能で形而上学的に自律的な価値)なのだから、血圧が低いこと(事実的なプロジェクト)を健康(規範的なプロジェクト)と単純に等しいとすることはできない。
 だが、これが論理的に正しいとすると、「血圧が高いとか低いとかで健康を論じることになんの意味もない」というかなり奇妙な結論に至る。どのような状態が「健康」かは専門家のあいだでもさまざまな議論があり、その「価値」を科学的に厳密に定義することはできないかもしれない。しかしそれでも、私たちは科学=医学にもとづいて、なにが健康でなにが不健康かを(それなりに)適切に判断している。
 同様に、道徳を含む人間の社会的行動の領域もきわめて複雑で、なにが「善い」かを科学によって定義することは不可能だろう。しかしそれでも、私たちは道徳的価値について、日常的観察や科学(進化論や遺伝学、脳科学)から多くを学ぶことができるのではないか――。
 チャーチランドのこうした「常識的」な議論は、哲学の領域から科学を排除しようとする偏狭な主張よりもずっと理にかなっているように思える。「人間の脳および一般に動物の脳は、生存と幸せを価値づけるように組織されており、生存と幸せが、価値あるものなのである」のだから、「私たちの知覚は価値に満ちている」とチャーチランドはいう。
 同様にクリスタキスも、「全世界の人間はみな、ある一定のタイプの社会をつくるように最初からできている。それは愛情と友情と協力と学習に満ちた社会である」と述べる。もちろんこれは、たんなる楽天家の戯言ではない。「トランプのアメリカ」を目の当たりにした知識人として、クリスタキスも「人間は衝突し、憎みあうようにできている」ことを認めざるを得ない。だがその一方で、私たちは「愛情や、友情や、協力を育むようにもできている」。人間の社会とは、このふたつの対立する衝動が「DNAの二重らせんの2本の糸のように」絡みあってつくられているのだ。
 クリスタキスが依拠する行動遺伝学や進化生物学、進化心理学などは、「優生学の現代版」として“リベラル”な知識人からずっと目の敵にされてきた。『ブループリント』で印象深いのは、いまやそうした「現代の進化論」が、“よりよい社会”“よりよい未来”を構想するようになったことだ。
 ソ連崩壊によって、ヒトの本性を無視した「改革」が機能しないばかりか、とてつもない災厄をもたらすことが誰に目にも明らかになった。トランプ政権下のアメリカ社会の混乱を前にして、それまでのリベラルな(きれいごとしかいわない)人文・社会科学が説得力を失った。
 本書の最後でクリスタキスは、「人間の進化の歴史が描く弧は長い。その弧は善い方向に向かって伸びているのだ」と宣言する。この一文に、「差別の科学」として忌み嫌われた「現代の進化論」が、唯一残された「希望」へと変わったことが象徴されているのだろう。

橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) など。最新刊は『女と男 なぜわかりあえないのか』(文春新書)。
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 相当、揺さぶられる文章なので読み切れない人もいるのではなかろうか?

 ただし、この著者の見解は含んでおいた方が良いと思う、例えば、この記事を踏まえて、自分はどう思うかを考えていけば良いのだ。

いい記事だね、忘備録。