110円の知性

110円(税込)の古本を読んで得た知性とはこんなもの(消費税変更に合わせて改題)。

ベルクソン(市川浩著)

 本書は1983年に「人類の知的遺産」という全集の59巻として出版されたもので、現在は講談社学術文庫で読むことができる。
 編著者が、身体論で私的におなじみの市川浩氏であるので興味があった。
 まずは、その身体論としての精神と身体についてだが、ベルクソンはそれらを両立させる立場を取っている、そしてそれを統合する概念として「イマージュ」という考え方をしているようだ。
 市川氏は、精神と身体は区別されないものとして考えているので、そういう意味での差異はでてくるが、精神優位であるとか、物質優位のような立場をとらないベルクソンの考え方は、それなりに評価できるようにも思える。

 さて、本書を読んでいて興味があった考え方は、ある種の進化論的なもので、進化というのは混沌としていた状況から調和的な状況に変っていくというイメージがあるが、ベルクソンの考え方は、逆に、調和した状況から、ある意味において、(役割)分化していくという考え方であり、たとえば、植物はエネルギーを蓄える働きをし、動物はエネルギーを消費する働きをするというように分化していくとする。
 そして、(人為的作られた意味では無い)社会性について考えれば、蜜蜂の社会は、人間の社会よりも調和されているとする、しかし、社会的な調和とは、規律が確立されているということであり、完成された秩序であるという考え方をすると、自由度が無いという事になる。
 それでは、人類というのはどういうものかというと、自由度を得るため、本能に対して理性を持つということ、その理性により、物質に働きかけて自然と対抗するという道を進んできたとしている。
 そして、この理性重視の深化は、物質主義は、自由を目指すものであり、自由ということは利己主義に陥ることを指摘し、それに対して、有機的・自然的な世界は、上述の蜜蜂のような、調和した社会を目指すという風に、二項の対立を示す。
 おやおや、何か文明批判的になってきましたが、そこで、ベルクソンは宗教が、この分離を統合する役割を担う立場で出現し、この問題を解決する様に発展するという、明るい回答を与えてくれる。

 現代の宗教的な思想の枯れた日本では、何か釈然としない感覚に陥りそうだが、19世紀から20世紀に掛けての思想の変遷を考えると、さほど奇異なものではないと思う。
 「生きられる時間」、「生きられる空間」という人間の本来の自然性からの認識に対して、自然科学的な「等質空間」という恣意的な思考、物質主義的の傾向に対する危惧は、その当時の多くの哲学者によって、言葉を変えながら言われ続けられた。

 しかし、ベルクソンも言うように、本能から訴えかけられる言葉(直観)は力が弱く、知性によって抑制されてしまう。
 (岸田秀氏の「唯幻論」、人間は本能の壊れているという事と似ている感じがする)
 かくして、物質文明はその後もその力を拡大して現在に至っている。
 頼みの宗教もどんどん形骸化しているように思う。
 
 もし、ベルクソンの進化(分化)の考え方が正しければ何が起こるのだろう?
 たぶん、現在の人類よりも「より進化した種」を自然が発生させるのだろう。
 人間が究極の進化形態であるという保証はない。