剣の精神史(甲野善紀著)
本書は1991年新曜社より刊行されたものを増補改訂し、ちくま学芸文庫版で新装刊行されたものを読む。
この著者は武術研究者という肩書きを持つ、だから、本書のような武術についての精神史が記されたわけだ、本書では、普通の人ならば聞いたことも無いと思われる「真里谷円四郎」という人物が中心になっている。
そしてこの真里谷氏は、他流試合を千回行い千回勝つという離れ業を成し遂げた人物だ。
まさに、ヒーローマンガの世界ではないか、しかもこちらはノンフィクションらしいのだ。
そういう意味で興味を持った人は、本書を探して呼んでみると面白いかもしれない、ただし、本書の文体は意外に冗長性が強く余り上手いとは言えない。
しかし、それを上回る著者の武術への愛着が窺える文章で、その分を補っていると思う。
本当に武術が好きなんだね、この著者は・・・・。
現在ならば、武術といえども科学的な分析で合理的な動きを導き出す様なこともあるのだろう、本書で取り上げられた「無住心剣術」という、「気」の使い方を中心にした剣術・思想を持つものは、ある意味、観念論・精神論の類として興味を持たない人もいるかもしれない。
ただし、いかに完成された身体を作り上げ、最新の精神療法で精神を安定させても、人間が媒体であれば必勝ということは難しいだろう。
それだけ、人間は揺らぐのだ、それでは、そういうところをどう克服すればよいのだろう?
本書には、そのためのヒントが有るとも言えるし、また、無いとも言える。
例えば、剣の極意が、自然に振舞うことであるとする、その自然とは何を指すのか?
例えば、自然とは、獣の類を模倣するという考え方が一方にあるとすれば、片や、人間というものがそういう獣(自然)を越えて君臨するその境地の中で、自然に振舞うこととも言える。
さて、あなたはどのようにとらえるのであろうか?
現代は、精神論を卑下する風潮があるように思うのだが、理性的に判断できないことについては、精神・観念・主観などでしか対応できないような、そんな領域(問題)も少なからずあるように思うのだが?(いかが)
この著者は武術研究者という肩書きを持つ、だから、本書のような武術についての精神史が記されたわけだ、本書では、普通の人ならば聞いたことも無いと思われる「真里谷円四郎」という人物が中心になっている。
そしてこの真里谷氏は、他流試合を千回行い千回勝つという離れ業を成し遂げた人物だ。
まさに、ヒーローマンガの世界ではないか、しかもこちらはノンフィクションらしいのだ。
そういう意味で興味を持った人は、本書を探して呼んでみると面白いかもしれない、ただし、本書の文体は意外に冗長性が強く余り上手いとは言えない。
しかし、それを上回る著者の武術への愛着が窺える文章で、その分を補っていると思う。
本当に武術が好きなんだね、この著者は・・・・。
現在ならば、武術といえども科学的な分析で合理的な動きを導き出す様なこともあるのだろう、本書で取り上げられた「無住心剣術」という、「気」の使い方を中心にした剣術・思想を持つものは、ある意味、観念論・精神論の類として興味を持たない人もいるかもしれない。
ただし、いかに完成された身体を作り上げ、最新の精神療法で精神を安定させても、人間が媒体であれば必勝ということは難しいだろう。
それだけ、人間は揺らぐのだ、それでは、そういうところをどう克服すればよいのだろう?
本書には、そのためのヒントが有るとも言えるし、また、無いとも言える。
例えば、剣の極意が、自然に振舞うことであるとする、その自然とは何を指すのか?
例えば、自然とは、獣の類を模倣するという考え方が一方にあるとすれば、片や、人間というものがそういう獣(自然)を越えて君臨するその境地の中で、自然に振舞うこととも言える。
さて、あなたはどのようにとらえるのであろうか?
現代は、精神論を卑下する風潮があるように思うのだが、理性的に判断できないことについては、精神・観念・主観などでしか対応できないような、そんな領域(問題)も少なからずあるように思うのだが?(いかが)