道徳情操論(アダム・スミス著)
本書は未来社から上下巻で刊行されたもの、上巻は昭和44年初版、下巻は昭和45年初版のものだ。
アダム・スミスという名前や人、著作は多分誰もが習っていたり知っていたりする。
しかし、その著作、例えば国富論を読んでみたという人はどれくらいいるのだろうか?
私も、還暦まで2年ほどになったこの時期に「国富論」(抜粋、中央公論社・世界の名著)と本書などで読んでみた次第だ。
ちなみに、「道徳情操論」は一般的ではなく「道徳感情論」という方が馴染みがあるのだろう。
私も、「道徳感情論」をまず探したのだが、日経BP社の最近の翻訳が評判が良いのでこれにしようか、もっと安く他の翻訳(岩波文庫、講談社学術文庫など)を探してまずは安価に読もうと思ったのだが、日経BP社版のAmazonでのレビューの中に、優れた翻訳書に米村訳があるというのを見て探したところ、今回の未来社版に巡り合った、それが、昭和44、45年に刊行されたものであることを知り、さらに、戦争中の翻訳者の体験からもたらされたものであることを知り、新しいものが必ずしも優れているとは限らないということを改めて思い知らされたわけだ。
そして、その新しくないアダム・スミスの本を読む動機とは、現在の社会・経済にある。
レッセフェール・・・企業や個人の経済活動などは、神の見えざる手に任せれば良い
という自由主義の考え方で、この源流がアダム・スミスなわけで、その究極の姿が現在の社会・経済であり、それは、どうも大格差社会でもあり、なんか不幸な世の中に思えるのだ。
本当にアダム・スミスはこんなことを考えたのだろうか?
その答えは「国富論」よりも「道徳感情論(情操論)」にあるように思う。
経済自由主義であろうが、人間の持つ道徳感がその暴走を抑えるはずだ・・・ったのだが、どうも、その後の人たちが経済自由主義、紙の見えざる手だけを誇張して、発展させてしまったようだ、そう道徳というのを置き去りにしてね。
そういえば、マルクスの描いた社会主義も、その実践されたものは、彼(マルクス)が思い描いていたものとは随分違うものだったように思う。
人間というヤツはつくづく自分勝手なものだが、自分を含めて「人間のそういう悪癖」を認めつつ、大きな思想について本当のところはどうだったのかぐらいは、たまには反省しても良いのではなかろうかと思った。